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漢詩・和歌・俳句鑑賞
俳句鑑賞

 横井也有は、数え年26歳で家督を継ぎ、御用人、大番頭、寺社奉行など尾張藩の要職を務め、53歳で隠居しました。その中で、俳句や和歌、漢詩、狂歌などに親しみ、歌舞音曲にも通じ、茶道などもたしなむ風流人として過ごします。82歳で亡くなるまで数多くの作品を残し、特に俳文の名手として、松尾芭蕉と並び称されてきました。俳句の数は5,000を超えるとされ、軽妙洒脱で味わいのあるものが残されています。

「袴着る 日はやすまする 團かな」 「寝てや楽 起てや安き 雪の竹」
「かる人の 手によごれけり 金銀花」 「雪の願ひ 水にはなしそ 夕あらし」
「ゆだんすな 鼠の名にも 廿日草」 「魚うりの 声よそにふけ 青あらし」
「菊の日や まづ初立ちの 東籬まで」 「へちまとは へちまに似たで 糸瓜哉」
「赤かれと 西瓜いのらむ 龍田姫」 「一えだの 梅はそへずや 柊うり」
「なき魂や たづねて雲に 鳴く雲雀」 「茶は同じ 香を手まくらの 右左」
「鶯を 夜にして聞く 朝寝かな」 「花あらば 花の留守せん 下戸一人」
「其魂も まねかばこゝに すみれ塚」 「月花や袋や形は定まらず」
「六十てふ 身はそれだけの はぢ紅葉」 「短夜や われにはなかき ゆめ覚ぬ」
〇「袴着る 日はやすまする 團かな」

(句意) 袴を着る日は休ませるのだ団扇は、正装の袴の時は扇子だから。

【注釈】
・團:うちわ=奈良団扇(ならうちわ)のこと、奈良市の特産品で、称徳天皇の天平神護~神護景雲年間(765~769年)に春日大社の神官が軍扇の形に倣って作られたのが始まりとされてきました。

<解説>
 横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文「奈良団賛」の末尾にある発句ですが、也有20歳代後半の作と考えられています。この俳文は、扇と団扇を比較し、団扇の美点を述べていますが、一芸無能の団扇と多芸多能の扇子の対比がとても面白く描かれています。扇は、風を起すほかに、謡曲の拍子をとり舞に用いられ、帯に差されて晴やかな場にも出入りしますが、団扇の方は、ただ暑さしのぎに使われるばかりだとしたものの、団扇に愛着を持っているのがわかります。 末尾の発句で、袴を着る日は、扇子をさすので、団扇はおやすみだよと、ユーモラスに結んでいます。

〇「寝てや楽 起てや安き 雪の竹」

(句意) 寝ていても楽だが、起来ていてこそ安易に、雪にしなる竹であることよ。

【注釈】
・雪の竹:ゆきのたけ=雪にしなる竹。よく詩画の題材とされる。

<解説>
 横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文「蔵人伝」の末尾にある発句ですが、也有30歳代中頃の作と考えられています。この俳文は、昔、ある蔵人が狂歌「よの中にねたほどらくはなき物をしらであほうが起てはたらく」に対して「はたらかで起て居る身の気楽さよ寝てもあほうは物思ふ世に」と返歌したことに対し、それを聞いた左近衛府の長官が感服して「ものぐさの蔵人」という名を与え、人々から「怠け者の蔵人」と呼ばれるようになったという話を取り上げたものでした。末尾の発句で、寝ていても楽だが、起来ていてこそ安易に、雪にしなる竹であると結んでいます。

〇「かる人の 手によごれけり 金銀花」

(句意) 刈る人の手によって汚された金銀花は、借りる人次第で汚れる金と同じだ。

【注釈】
・金銀花:きんぎんか=植物「すいかずら(忍冬)」の漢名。また、その花の称。漢方で乾燥したものを解熱・解毒薬に用いる。

<解説>
 横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文「借物の弁」の末尾にある発句ですが、元文5年(1740年)夏の作と考えられています。この俳文は、物の貸し借りについて述べたもので、いろいろなエピソードを出しながら、面白おかしく語ったものでした。大昔から、物の貸し借りということはあり、金に困って借金をすれば、だんだん深みにはまっていくものだとしています。僧の金貸しについて、貸すほうも借りるほうも罪になることだしとしました。最近の人は借金を苦にせず、貧乏も平気だなどと(清貧で知られた)顔回を引き合いに出すものの、顔回とは雲泥の差だとしています。人並みでないと恥ずかしいと、無理して借金ををしても、返せないのはもっと恥だとし、なんでも借りられる世の中で、女房だけは借りられないのがありがたいことだとしています。末尾の発句で、刈る人の手によって汚された金銀花(すいかずら)は、借りる人次第で汚れる金と同じだと結びました。

〇「雪の願ひ 水にはなしそ 夕あらし」

(句意) 雪乞いの願いの句会を水泡に帰さないでほしい、夕方の嵐よ。

【注釈】
・雪の願ひ:ゆきのねがい=雨乞いになぞらえた、雪乞いの儀式のこと。ここでは雪乞い句会を開催することを言う。

<解説>
 横井也有著『後鶉衣』に掲載されている俳文「雪請序」末尾にある発句ですが、宝暦4年(1740年)冬、也有が53歳で病を理由に隠居とした年の作とされています。この俳文は、雨乞いならぬ雪乞いを正当化するために、いろいろな故事や歌を引き合いに出しながら、俳諧の力で、雪を降らせて見せるとの風流の試みが面白おかしく伝わってきます。末尾の発句で、雪乞いの願いの句会を水泡に帰さないでほしい、夕方の嵐よと懇願して結びました。

〇「ゆだんすな 鼠の名にも 廿日草」

(句意) 牡丹の花(廿日草)の下で、油断するなよ。鼠の名にも廿日鼠というのがあるからな。

【注釈】
・廿日草:はつかぐさ=植物。ボタン科の落葉低木、園芸植物、薬用植物。ボタン(牡丹)の別称。

<解説>
 横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文「猫自画賛」末尾にある発句ですが、元文5年(1740年)頃の作と考えられています。この俳文は、也有が小型の襖障子に何か絵を描いてほしいと依頼され、鼠除けとして猫の絵を描いたものの、鼠にはどう見えるだろうかとユーモアを交えて、いろいろと書いたものでした。末尾の発句で、牡丹の花(廿日草)の下で、油断するなよ。鼠の名にも廿日鼠というのがあるからな。と結びました。

〇「魚うりの 声よそにふけ 青あらし」

(句意) 魚うりの声は他の所で流してくれ、他所で吹く青嵐のように。

【注釈】
・青あらし:あおあらし=初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風。青嵐。

<解説>
 横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文「謝無馳走辞」末尾にある発句ですが、也有30歳代前半の作と考えられています。この俳文は、俳諧の席について語っていますが、俳諧の席は簡素を旨とし、宴会化してはいけないと戒めています。也有の経済力で新鮮な魚や珍しい野菜などを購入することは出来なくはないですが、風雅の取り決めとして、贅沢を戒め、質素を旨としているのです。末尾の発句で、魚うりの声は他の所で流してくれ、他所で吹く青嵐のように。と結びました。

〇「菊の日や まづ初立ちの 東籬まで」

(句意) この喜ばしい菊の日に九死に一生を得た私は 病後初めて床を離れて歩い庭に下り立ってまず屋敷の東側の垣根まで行って菊を愛でよう。

【注釈】
・東籬:とうり=屋敷の東側のかきね。陶潜(淵明)の「飲酒詩」の「採レ菊東籬下」から、菊に関していわれることが多い。

<解説>
 横井也有著正編『後鶉衣』に掲載されている俳文「九日寄服先生辞」末尾にある発句ですが、宝暦11年(1761年)9月の作と考えられています。この俳文は、菊の日(陰暦9月9日の重陽の節句)にあたり、重病から回復したことへの胸中を述べたもので、医師への感謝と共に周りの情景について語ったものでした。数え年60歳で大病をし、命の終わりを意識したものの、なんとか回復したことへの喜びが感じられます。末尾の発句で、この喜ばしい菊の日に九死に一生を得た私は 病後初めて床を離れて歩い庭に下り立ってまず屋敷の東側の垣根まで行って菊を愛でよう。と結びました。

〇「へちまとは へちまに似たで 糸瓜哉」

(句意) へちま野郎(つまらない人)などと呼ばれるのは、何もせずにぶらぶらしているへちまに似ているから、糸瓜(へちま)と呼ばれているのだなあ。

【注釈】
・糸瓜:いとうり/へちま=へちまのこと。ウリ科の一年生つる植物。つまらないものをいうたとえ。

<解説>
 横井也有著『後鶉衣』に掲載されている俳文「自名説」末尾にある発句ですが、宝暦4年(1754年)頃、也有が数え年53歳で隠遁した時の作と考えられています。この俳文は、隠遁するにあたって、名乗りをどう改めようかといろいろと思案を巡らせている様子が、面白く描かれました。結局、「暮水」いう名前にしたと、自分の考えを語ったものと考えられています。末尾の発句で、へちま野郎(つまらない人)などと呼ばれるのは、何もせずにぶらぶらしているへちまに似ているから、糸瓜(へちま)と呼ばれているのだなあ。と結びました。

〇「赤かれと 西瓜いのらむ 龍田姫」

(句意) 「赤くあってくれ西瓜(スイカ)よ」と祈ろう、(名高い織女ではなく、秋を司るので染めるのが上手とされる)龍田姫に。

【注釈】
・西瓜:すいか=ウリ科の一年生つる植物。園芸植物、薬用植物。
・龍田姫:たつたひめ=「延喜式」にみえる女神。秋を司る女神。

<解説>
 横井也有著『後鶉衣』に掲載されている俳文「星夕譜」末尾にある発句ですが、宝暦4年(1754年)頃、也有が数え年53歳で隠遁した時の作と考えられています。この俳文は、陰暦七月七日の夜(七夕)の牽牛・織女の二星が1年に1度だけ相会するという伝説をベースにして、西瓜(スイカ)への思いと対比させながら、ユーモラスに語っています。末尾の発句で、「赤くあってくれ西瓜(スイカ)よ」と祈ろう、(名高い織女ではなく、秋を司るので染めるのが上手とされる)龍田姫に。と結びました。

〇「一えだの 梅はそへずや 柊うり」

(句意) とげとげしい葉の柊の他に、梅の一枝でも添えたらどうか、節分の頃にやってくる柊売りよ。

【注釈】
・柊うり:ひいらぎうり=柊を売る人。節分の時の厄除けのまじないで、焼いた鰯の頭を柊に刺して戸口に刺す風習があった。

<解説>
  横井也有著『鏡裏梅』に掲載されている俳文「節分譜」末尾にある発句ですが、明和4年(1767年)頃、也有が数え年66歳頃の作と考えられています。この俳文は、立春の前日である節分の風習について書いていますが、民間では柊(ひいらぎ)の枝にいわしの頭をつけて門戸にかざし、また日暮れに豆まきをして追儺(厄払い)を行う習慣がありました。末尾の発句で、とげとげしい葉の柊の他に、梅の一枝でも添えたらどうか、節分の頃にやってくる柊売りよ。と結びました。

〇「なき魂や たづねて雲に 鳴く雲雀」

(句意) 亡くなられた魂よ。訪ね求めて雲間に鳴く雲雀なのか。

【注釈】
・雲雀:ひばり=スズメ目ヒバリ科の鳥。全長17センチくらい。体は褐色の地に黒い斑があり、頭に短い冠羽をもつ。

<解説>
  横井也有著『続鶉衣』に掲載されている俳文「悼伯母辞」末尾にある発句ですが、延享3年(1746年)春、也有が数え年45歳の作と考えられています。この俳文は、也有が、藩主に従って江戸に赴任する前に、いとまごいのために伯母を訪問したが、江戸到着直後に伯母の訃報に接してこの文章を書いたと思われます。出立前の伯母とのやり取りと、也有の伯母への思慕が、ていねいに書き記されていて、雲雀に託してその思いを表現しました。末尾の発句で、亡くなられた魂よ。訪ね求めて雲間に鳴く雲雀なのか。と結びました。

〇「茶は同じ 香を手まくらの 右左」

(句意) 茶は同じ香なのだから、茶碗を持つ右手を左手で受け取り、左手で茶碗を支える動作と同じようなものだよ。

【注釈】
・手まくら:てまくら=也有が名付けた内津に産する茶の銘。茶道の作法の一つで、茶碗を持つ右手を左手で受け取り、左手で茶碗を支える動作のことを言います。

<解説>
  横井也有著『鏡裏梅』に掲載されている俳文「茶記」末尾にある発句ですが、安永2年(1773年)の数え年72歳頃の作と考えられています。この俳文は、内津に住む長谷川三止が自家製の茶の銘を也有に求めて、俳文「定茶名文」により、「手まくら」とつけてもらいましたが、近所の醒月堂(試夕の屋号)が製する茶も同じだからというので銘を譲ってやりました。しかし、三止のは自家用、醒月堂のは商売物で、扱いが違うのに同じ銘では、三止の方がにせものかと疑われます。そこで疑いを解く一言をと也有に求めたものです。末尾の発句で、茶は同じ香なのだから、茶碗を持つ右手を左手で受け取り、左手で茶碗を支える動作と同じようなものだよ。と結びました。

〇「鶯を 夜にして聞く 朝寝かな」

(句意)鶯の声を雨戸を閉めっぱなしにし、夜の気分で聞く朝寝は楽しいものだなあ。

【注釈】
・鶯:うぐいす=スズメ目ウグイス科の鳥。雄は全長約16cm、雌は約14cm。雌雄とも背面は褐色を帯びた緑色で、腹部は白っぽい。早春、「ホーホケキョ」と美声でさえずる。

<解説>
  横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文「朝寐辞」末尾にある発句ですが、享保15年(1730年)頃の数え年29歳頃の作と考えられています。この俳文は、神仏や孔子にも、朝寝をせよという教えはない。君主から小商人まで、朝寝をしてしまえば必ず国が乱れ、店が潰れるであろう。とは言っても、格別用のない者が朝寝をするのはいいのではないか。特に、春などに夢うつつとなって、うつらうつらするのはとても気持ちがいいことだ。無理に早起きして昼寝をするよりよいのではないか。しかし、秋の夜長になれば、また変わって早起きをし、早起き男と呼ばれる身勝手を、釈迦も孔子も大目に見てほしい、といった内容です。末尾の発句で、鶯の声を雨戸を閉めっぱなしにし、夜の気分で聞く朝寝は楽しいものだなあ。と結びました。

〇「花あらば 花の留守せん 下戸一人」

(句意)桜の花が盛りならば、花見酒に受かれる人々を尻目に、ただ静かに桜の花に向き合う、下戸が一人いる。

【注釈】
・下戸:げこ=酒の飲めない人。酒を好まない人。

<解説>
  横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文「断酒弁」末尾にある発句ですが、寛保2年(1742年)春の数え年41歳頃の作と考えられています。寛保2年(1742年)春の数え年41歳頃の作と考えられています。この俳文は、「断酒」について書いたものですが、悪い酒に当ったのを契機に、しばらく酒を控えていたら、体調が良いので、このまま禁酒してしまおうという趣旨のものです。末尾の発句での「花の留守」とは、花見酒に受かれている人々を尻目に、ただ静かに桜の花に向き合うことを言っていると思われます。也有は元来、少量の酒ならば嗜む人だったそうですから、下戸だったわけではありません。人には、人それぞれの花見の方法があると主張したものだと考えられます。

〇「其魂も まねかばこゝに すみれ塚」

(句意)松尾芭蕉の魂を呼び戻すごとく、この地にすみれ塚(「山路来てなにやらゆかしすみれ草」の句碑)を建立しよう。

【注釈】
・其魂:そのたましい=松尾芭蕉の魂のことで、その俳句の精神を指す。
・すみれ塚:すみれづか=松尾芭蕉の「山路来てなにやらゆかしすみれ草」の句碑のこと。

<解説>
  横井也有著『後鏡裏梅』に掲載されている俳文「菫塚記」末尾にある発句ですが、明和6年(1769年)9月、也有が数え年68歳頃の作と考えられています。この句は、也有の芭蕉復興運動につながる思いを詠んだものと思われます。尾張国春日井郡内津村の住人で、医師・薬種商長谷川三止の求めに応じたもので、也有直筆の「山路来てなにやらゆかしすみれ草」とこの俳文は共に、三止に与えられました。三止は、これを元にして、内津宿の住居近くの下街道沿いに、芭蕉の「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と也有の「其魂もまねかばこゝにすみれ塚」の句碑を2つ建立しました。

〇「月花の 袋や形は 定まらず」

(句意)賞翫したり寵愛したりするものも袋も形は定まっていないものだよ。

【注釈】
・月花:つきはな=賞翫(しょうがん)したり寵愛(ちょうあい)したりするもののたとえ。

<解説>
  横井也有著正編『後鶉衣』に掲載されている俳文「袋の賛」末尾にある発句ですが、宝暦14年(1764年)、也有が数え年63歳頃の作と考えられています。この俳文は、也有が世の中で、こだわったり、意地を張ったり、主義主張を唱えたり、形式や風習などにこだわるなど、とかく狭い料簡に固執したり、上下関係やら先輩後輩などの序列を重視する傾向などを揶揄したものと思われます。末尾の発句で、賞翫したり寵愛したりするものも袋も形は定まっていないものだよと結びました。

〇「六十てふ 身はそれだけの はぢ紅葉」

(句意)六十歳となった身では、それだけ恥をかくことが多くなったことで、ハゼノキの紅葉の如くに、顔を赤らめるばかりだ。

【注釈】
・はぢ紅葉:はじもみじ=紅葉したハゼノキの葉と恥をかけている。

<解説>
  横井也有著『後鶉衣』に掲載されている俳文「六十歳節」末尾にある発句ですが、宝暦11年(1747年)9月、也有が60歳の時の作とされています。この俳文は、60歳になった感慨を述べたものです。末尾の発句で、六十になった身は、それだけ恥が多くなったことで、顔を赤らめるばかりだと感嘆して結びました。

〇「短夜や われにはなかき ゆめ覚ぬ」(辞世の句)

(句意)短い夜ではあったが、私にとっては、とても長い夢から目覚めたような思いである。

【注釈】
・短夜:みじかよ=短い夜。特に、明けやすい夏の夜。

<解説>
  横井也有は、1783年(天明3年6月16日)に、尾張国名古屋において、数え年82歳で亡くなりましたが、これは、辞世の句です。短い人生だったのに、長い夢を見ることができたので、幸福だったという思いが込められています。

      ガウスの歴史を巡るブログ

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