本文へスキップ

ナビゲーション

横井也有の俳文選
237「菫塚記」

☆菫塚記(すみれづかき)

 江戸時代の俳人横井也有著のf俳文です。也有に私淑し、尾張国春日井郡内津村(現在の愛知県春日井市内津町)に住んでいた俳人長谷川善正(号は三止)は、かねてから内津に松尾芭蕉の句碑を建立したいと考え、明和6年(1769年)秋に、その揮毫を也有に依頼し、「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と書いてもらいましたが、その時に、也有から与えられたものです。同年9月に、この句碑は、也有の句碑「鹿啼や山にうつふく人心」と共に内津村の下街道沿いに完成しました。この俳文は、横井也有著『後鏡裏梅』に掲載されていて、世間に知られることとなります。

☆菫塚記(すみれづかき) (全文) 

<原文>

 幽耕亭[1]の主、蕉翁[2]の道をしたふ余り、山は山路の薄むらさきのゆかり[3]もあればと、遺吟の一句[4]を石面に彫り、菫塚と名付けて万世[5]にとゞめむととす。厚情[6]誠に夢の跡[7]なきには似ず。むべなりや[8]是うつゝのサト[9]なり。   

     其魂[10]もまねかばこゝにすみれ塚

昭和58年3月30日 名古屋市教育委員会発行『名古屋叢書三篇 第十七巻・第十八巻 横井也有全集 中』より

(現代語訳)  菫塚記

 尾張国内津村の長谷川三止が、松尾芭蕉の道を慕う余り、山ではあるが、大江匡房の「箱根山薄紫のつぼすみれ二しほ三しほたれか染めけん」の縁もあればと、松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の句を石面に彫り、菫塚と名付けて永遠に後世まで残そうとした。厚情に誠を感じ、(芭蕉の足跡が)夢の跡と化しているには似ず、いやはやもっともであることよ、ここは内津村なので、現実のことである。

 松尾芭蕉の魂を呼び戻すごとく、この地にすみれ塚(「山路来てなにやらゆかしすみれ草」の句碑)を建立しよう

【注釈】

[1]幽耕亭:ゆうこうてい=尾張国春日井郡内津村に住む長谷川三止の住居のことで、横井也有が命名した。
[2]蕉翁:しょうおう=俳人松尾芭蕉のこと。
[3]山路の薄むらさきのゆかり:やまじのうすむらさきのゆかり=『堀川百首』にある大江匡房の「箱根山薄紫のつぼすみれ二しほ三しほたれか染めけん」で、菫を山路で詠んでいることを踏まえている。
[4]遺吟の一句:いぎんのいっく=亡くなった松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の句のこと。
[5]万世:ばんせい=限りなく何代も続く永い世。万代。永遠。よろずよ。
[6]厚情:こうじょう=厚いなさけ。心からの深い思いやりの気持ち。
[7]夢の跡:ゆめのあと=今となっては夢のようにあとかたも残っていないところ。また、往時はそこにいた人人がいろいろな夢を馳せたであろう古いあと。すべての物事が結局はむなしいということを表わす語。
[8]むべなりや=いやはやもっともである、としみじみ思う様子を表明する言い方。その通りであるなあ。
[9]うつゝのサト:うつつのさと=尾張国春日井郡内津村のことだが、現実のことであることをかけている。
[10]其魂:そのたましい=松尾芭蕉の魂のこと。蕉風本来の精神を言っている。

      ガウスの歴史を巡るブログ

このページの先頭へ
トップページ INDEXへ 
姉妹編「旅のホームページ」へ

*ご意見、ご要望のある方は右記までメールを下さい。よろしくね! gauss@js3.so-net.ne.jp