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横井也有の俳文選
47「借物の弁」

☆借物の弁(かりもののべん)

 横井也有著正編『鶉衣』に掲載されている俳文で、元文5年(1740年)夏の作と考えられています。この俳文は、物の貸し借りについて述べたもので、いろいろなエピソードを出しながら、面白おかしく語ったものでした。大昔から、物の貸し借りということはあり、金に困って借金をすれば、だんだん深みにはまっていくものだとしています。僧の金貸しについて、貸すほうも借りるほうも罪になることだしとしました。最近の人は借金を苦にせず、貧乏も平気だなどと(清貧で知られた)顔回を引き合いに出すものの、顔回とは雲泥の差だとしています。人並みでないと恥ずかしいと、無理して借金ををしても、返せないのはもっと恥だとし、なんでも借りられる世の中で、女房だけは借りられないのがありがたいことだと結びました。

☆借物の弁(かりもののべん) (全文) 

<原文>

         元文五夏
 久かたの月だに日の光をかりて照れば、露又月の光をかりて、つらぬきとめぬ玉ともちる也。むかし何がし[1]の尊の兄の鈎を借給ひしより、まして人代に及むで、一切の道具を借るに、借す者も互なれど、砥[2]の挽臼[3]のといへるたぐひは借すたびに背ひきく、鰹ぶしは借りられて痩て戻るこそ哀なれ。金銀ばかりは徳つきて戻れば、元借る事のかたきにはあらぬを、かへす事のかたきより、今はかりる事だにたやすからず。むかし男ありて、身代もならの京春日の里にかす人有てかりにいにけるより、やごとなき雲のうへ人も、かりにだにやは君は来ざらむと、露深草のふか入したまへば、鬼のやう成るものゝふも霜月比[4]よりは地蔵顔[5]して、人にたのむの雁金は尾羽うちからして春来てもこし路にかへらず。かりの宿に心とむなと人をだにいさむる出家達も、借らでは現世の立がたきにや、二季の台所[6]には掛乞[7]の衆生[8]きたりて、色衣[9]の長老これが為におがみたまへば、又ある寺には有徳[10]の智識ありてこれはこちから借しつけて、切りの算用滞れば貧なる檀方を阿責[11]したまふ。かれも是もともに仏の御心にはたがふらんとぞ覚る。
 そも顔子[12]は陋巷[13]に有ていかきのめし・瓢箪[14]酒に貧の楽をあらためずとや。さるを今世の人々借金の山なしてこれを苦にすれば限なし、百迄いきぬ身を持てさのみは心をかなしめんや、一寸さきはやみの世ぞと放言[15]に腹打たゝきて、我は貧に安んじたりなど、同じ貧楽の引事[16]に言はやるせなき心のはらへならめど、まことは雲水の間違也。なべて世にある人の、衣服調度をはじめて人なみならねば恥かしとて、其為にかねをかりて世上の恥はつくらふらめど、こちらに人の物を借りてかへさぬを恥と思はざるは、只傾城[17]の客にむかひて飯くふ口もとを恥かしがれど、うそつく口は恥ざるに同じ。かくいへる我も借らぬにてはなし。かす人だにあらば誰とてもかりのうき世に、金銀道具はいふに及ばず、かり親・かり養子も勝手次第にて、女房計は借り引のならぬ世の掟こそ有がたきためしなれ。   

     かる人の手によごれけり金銀花

昭和58年3月30日 名古屋市教育委員会発行『名古屋叢書三篇 第十七巻・第十八巻 横井也有全集 中』より

(現代語訳)  借物の弁

       元文5年(1740年)夏
 久かたの月でさえ、日の光をかりて照れば、露もまた月の光をかりて、つらぬきとめぬ玉ともなることである。昔、山彦が海彦に釣り針をお借りしたが、まして人の世になって、一切の道具を借りるのも、借すのもお互い様ではあるけれど、砥や挽臼などという類は、借すたびにすり減って、鰹ぶしはかりられて、痩せてもどることがあると心が痛むものだ。しかし、金銀ばかりは利子が付いて戻れば、元々借りる事の敵ではないのに、返す事のかたきより、今は借りる事でさえ容易ではない。昔、男がいて家計が成らず、奈良の春日の里に金を貸す人〝春日〟がいて借りに行った。捨ててはおけぬ事情で高貴な方も借りたって、いやそうではなく、君は来ざらんと露ふか草の深入りしてしまえば、鬼のやうなるものゝふも、11月頃よりはニコニコ顔をして、人にたのむもかりがねは、貧相な姿となり、春が来ても雁のように来る前の地に戻って行かない。返済しないだろうとかりの宿りに心求めようと、人を特に戒める出家達も、借りなければ、現世では立ち難いのであろう。盆暮れの台所には売掛代金をとりたてる者が来て、僧侶の長老は、このためにおがみ倒している、また、ある寺には金持ちの知僧があって、これは近在に金貸しをして、返済日の算用が滞たならば、貧しい檀家を厳しくとがめることである。かれもこれも共に仏の御心には背いている思われる。
 さて、顔子(孔子の高弟)は、せまくてむさくるしい町筋にあって、いかきのめし(竹の笊の飯?)、瓢箪酒に、貧の楽を改めないということであった。時は移って今、世の人々は借金の山をなして「是を苦にすれば際限がない、百まで生きることのない身を持って、それほど、たいして心を悲しませるのか。一寸先は闇の世だと。」言いたい放題に打ち叩いて、「私は貧乏に甘んじている。」など、おなじ貧楽の引用に使うのは、やるせなき心のおはらいなっているのだろうか、まことは雲水(雲泥)の差がある。一般に、世にある人の衣服・調度をはじめ、人並でないのは恥かしといって、そのために金をかりて世上の恥は繕うけれど、人の物を借りて返さないのを恥と思はないのは、ただ遊女の客に向かって、飯を食べる口もとを恥かしがっても、うそつく口は恥じないのに同じである。このように言っている私も借りないということはない。貸す人があれば、誰でも借り、仮りのうき世に、金銀・道具は言うにに及ばす。かり親・かり養子も勝手次第であって、女房だけは借りることが出来ない世の定めこそありがたきものである。

  刈る人の手によって汚された金銀花(スイカズラ)は、借りる人次第で汚れる金と同じだ。

【注釈】

[1]何がし:なにがし=人・物・時・所など、はっきり分からない時に用いることば。また、わかっていても、わざと暈して言う時に用いる言葉。
[2]砥:といし=切れ味が良くなるように、刃物をとぐための石。
[3]挽臼:ひきうす=穀物などをひいて粉にする臼。普通上下の部分に分れ,回転させてその間に入れた穀物をすりつぶす。
[4]比:ころ=ころおい。~そのころになって。
[5]地蔵顔:じぞうがお=地蔵のような円く、柔和な顔。にこやかな顔つき。
[6]二季の台所:にきのだいどころ=盆・暮れの金銭のやりくり、家計のきりもり。
[7]掛乞:かけごい=掛売りの代金を請求すること。また、その人。掛取り
[8]衆生:しゅじょう=生命のあるものすべて。特に、人間をいう。
[9]色衣:しきえ=墨染めの衣以外の法衣。紫・緋・黄・青などの色ごろも。位の高い僧が着る。
[10]有徳:うとく=徳行のすぐれていること。また、その人。ゆうとく。
[11]呵責:かとゃく=とがめしかる、きびしく責めしかる。
[12]顔子:がんし=中国、春秋時代の魯の人。字は子淵。孔門にあって、学才・徳行ともに第一位とされ、最も孔子に愛されたが、師に先立って死去。
[13]陋巷:ろうこう=貧しい裏町など、せまくてむさくるしい町筋。
[14]瓢簞:ひょうたん=酒を入れるヒサゴと、飯を入れる竹の器。ヒョウタンの実をくりぬいて酒などを入れる器。
[15]放言:ほうげん=勝手気儘に話す。言いたい放題に言う。無責任なことば。
[16]引事:ひきごと=かけひきや無心。また、相手の気をひくような言葉。
[17]傾城:けいせい=君主が色香に迷って、自分の国をあやうくするほどの女性。絶世の美人のこと。ここは単に遊女のこと。

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