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横井也有の俳文選
158「九日寄服先生辞」

☆九日寄服先生辞(ここのかせんせいにふくしてよせるのじ)

 横井也有著正編『後鶉衣』に掲載されている俳文で、宝暦11年(1761年)9月の作と考えられています。この俳文は、菊の日(陰暦9月9日の重陽の節句)にあたり、重病から回復したことへの胸中を述べたもので、医師への感謝と共に周りの情景について語ったものでした。数え年60歳で大病をし、命の終わりを意識したものの、なんとか回復したことへの喜びが感じられます。

☆九日寄服先生辞(ここのかせんせいにふくしてよせるのじ) (全文) 

<原文>

 我を生むものは父母なり。我を蘇する[1]ものは先生なり。僕が今年の秋いたく病めるや、この六十こそ我が世のかぎりなりけれと、みづからも思ひ、人もさ思へるにや、さし向かひてはいはざれども、つきじろふ[2]さまいちじるし。さるを先生の良剤[3]日をかさね、ふたたび九死[4]の地を出でて、世は今草木黄ばみ落ち、虫の音弱りゆくほど、我は引きたがへて[5]心地[6]たのもしう、菊祝ふ[7]今日は、いささか[8]盃をさへ手にふるれば、したしきものどもの、ただこの翁を拾ひたるもののごとく、笑ひののしるさまいとうれしげなり。さながら例の一癖はやまず、つたなき[9]狂句[10]して今日の歓びを先生に告ぐることしかり。

   
菊の日やまづ初立ち[11]の東籬[12]まで

昭和58年3月30日 名古屋市教育委員会発行『名古屋叢書三篇 第十七巻・第十八巻 横井也有全集 中』より

(現代語訳)  九日寄服先生辞

 私を生んだのは父母である。私を蘇らせたのは先生である。私が今年の秋重病になった時に、現在の60歳こそが私の人生の終焉なのであろうと、自分でも思い、人もそう思うのったのであろうか、面と向かっては言われなかったけれども、互いにつつきあって、ひそひそ話をしている様ははっきりと目についた。それなのに、先生の良薬が何日も効き続け、再び、ほとんど命が助かりそうもないような危ない状態を脱して、世は今しも(秋の深まりと共に)草木が紅葉して葉が落ち、虫の音も弱くなっていく時期に、私は予想を裏切って元気になり、菊の日(重陽の節句)の今日(陰暦9月9日)は、少しばかりの酒盃をさえ手に取れたので、親しき者達は、ただ、この翁(私)を命拾いしたもののように、笑って騒ぎあう様子はたいそう嬉しそうだ。 そうは言っても、(私の)いつもの癖は止まらず、たいしたことはない戯れの句を詠んで今日の歓びを先生に伝えることは、このとおりである。
   この喜ばしい菊の日に九死に一生を得た私は 病後初めて床を離れて歩い庭に下り立ってまず屋敷の東側の垣根まで行って菊を愛でよう

【注釈】

[1]蘇する:そする=生き返らせる。よみがえさせる。
[2]つきじろふ=互いにつつきあって。
[3]良剤:りょうざい=よい薬。良薬。
[4]九死:きゅうし=ほとんど命が助かりそうもないような危ない状態。
[5]引きたがへて:ひきたがえて=予想を裏切って。予想に反して。
[6]心地:ここち=気分の悪いこと。病気。やまい。
[7]菊祝ふ:きくいわう=菊の日(旧暦9月9日の節供、重陽の節)をお祝いする。
[8]いささか=程度の少ないさまをいう。少しばかり。わずか。
[9]つたなき=能力が劣っている、事を行うのに巧みでない。技術的に優れていない。大したことがない。
[10]狂句:きょうく=たわぶれまたは滑稽の句のこと。
[11]初立ち:はつだち=病後、初めて床を離れて歩いてみること。
[12]東籬:とうり=屋敷の東側のかきね。陶潜(淵明)の「飲酒詩」の「採レ菊東籬下」から、菊に関していわれることが多い。

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