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俳諧関係用語集(江戸時代以前)

【荒木田 守武】(あらきだ もりたけ)

 伊勢内宮の神官・連歌師・俳諧師です。戦国時代の1473年(文明5)に、伊勢において、伊勢内宮の神官を世襲する荒木田七家の一家で、内宮三禰宜だった父・荒木田守秀、母・荒木田(藤波)氏経の娘の子として生まれました。1487年(文明19)の15歳の時、禰宜となりましたが、若い頃より連歌を好み、1495年(明応4)の23歳の時、飯尾宗祇選『新撰菟玖波集』に兄の守晨と共に1句入集しています。連歌を宗祇、宗長、猪苗代兼載らに学び、1508年(永正5年)には、発句集『法楽発句集』を作りました。また、和歌も能くし、1525年 (大永5)に、世人を教諭する教訓歌集『世中百首(伊勢論語)』を作っています。1530年(享禄3)に、俳諧集『俳諧独吟百韻』を作り、1540年(天文9)の68歳の時、独吟の俳諧千句『守武千句(飛梅千句)』を作って、山崎宗鑑とともに俳諧独立の機運をつくり、宗鑑と並んで俳諧の祖と呼ばれるようになりました。伊勢内宮の神職としても累進し、1541年(天文10年)の69歳の時、伊勢内宮一禰宜(長官)となり、薗田長官とも呼ばれています。俳諧に座興的性格から脱して文芸性をつけようとしてきましたが、1549年(天文18年8月8日)に、伊勢において、数え年77歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「飛梅や 軽々敷くも 神の春」(独吟千句)、「落花枝に 返るとみれば 胡蝶かな」、「元日や 神代のことも 思はるゝ」、「散る花を 南無阿弥陀仏と 夕哉」、「青柳の まゆかく きしのひたひかな」(守武千句)

【井上 士朗】(いのうえ しろう)

 江戸中期~後期の医者・俳人です。江戸時代中期の1742年(寛保2年3月10日)に、尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)において生まれましたが、本名は正春と言いました。叔父の町医師・井上安清(名古屋新町在住)の養子となり、専庵と号し、1757年(宝暦7年2月)には、医師として独立し、後に京都に上り、吉増周輔に師事、産科医として著名となります。1765年~66年(明和2~3年)頃に、水野万岱の勧めで加藤暁台に入門して、俳句を習い、それ以外にも国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を荻野検校に学び、漢学にも詳しく、幅の広い知識人となりました。師の暁台が隠居して京都に移るとその留守を預かり、1792年(寛政4)に、暁台が亡くなると、一門を同門俳友の臥央に譲り独立します。尾張俳壇の指導者的立場を強めていき、衰退ぎみだった俳諧連歌(連句)においては俳句に勝る評価を得るようになりました。門人は、東は奥州から西は九州と全国に及びその名声は高まり、「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に寛政三大家の一人とされるようになりましたが、1812年(文化9年5月16日)に、名古屋において、数え年71歳で亡くなっています。

<代表的な句>
「足軽の かたまつて行く 寒さ哉」(竪並(たてのならび)集)、「たうたうと 滝の落ちこむ 茂りかな」、「小倉山 鹿の子やわたる 路の欠」、「月の舟 池の向ふへ つきやりて」、「万代や 山の上より けふの月」

井上士朗の絵 井上士朗宅跡(愛知県名古屋市東区)

【井原 西鶴】(いはら さいかく)

 江戸時代中期の俳人・浮世草子作家です。1642年(寛永19)に、大坂・難波の富商の家に生まれ、本名は平山藤五と伝えられています。15歳の頃から俳諧を学び、21歳で点者となったとされています。西山宗因の談林派に加わり、天下一の速吟として名を成しました。1682年(天和2)に、浮世草子『好色一代男』を発表して作家へと転進し、以後『好色五人女』、『武家義理物語』、『日本永代蔵』、『世間胸算用』などを発表します。そして、現実主義的な庶民文学を確立し、文学史上に一時期を画しましたが、1693年(元禄6年8月10日)に52歳で亡くなっています。

井原西鶴像 井原西鶴句碑(京都府京都市中京区)

【犬筑波集】(いぬつくばしゅう)

 山崎宗鑑編の最初の俳諧集で、戦国時代の1532年(享禄5)頃に成立したと考えられています。「新撰犬筑波集」とも言われ、宗祇、宗長、宗碩、兼載などの作を収録しています。

【上島 鬼貫】(うえじま おにつら)

 江戸時代の俳人です。江戸時代前期の1661年(万治4年4月4日5月2日)に、摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)で、有数の酒造業者(屋号・油谷)の父・上島宗次の三男として生まれましたが、名は宗邇(むねちか)と言いました。8歳の時、初めての句「こいこいといへと蛍がとんでゆく」を詠み、13歳の時、松江重頼(維舟)に入門、16歳の頃には、西山宗因を尊敬するようになって談林派に近づき、維舟撰『武蔵野』にも初入集しています。伊丹風俳諧の中心となり、1678年(延宝6)に『当流籠抜』に伊丹派の五吟五百韻を発表したものの、古風俳人から「狂乱体」と難ぜられました。その後、大坂へ出て修業し、4年間にわたって沈思・独吟の末、25歳の時に「誠のほかに俳諧なし」と悟り、その実作面でも完成の域に達したのが、1690年(元禄3)に出した『大悟物狂』です。1691年(元禄4)に本多氏に鍼医として仕官し、1699年(元禄12)には、伊丹の領主である近衛家から家来分に取り立てられました。その中で、松尾芭蕉とも親交を持つようになり、蕉風の影響も受け、1718年(享保3)には、『獨言』を刊行し、すぐれた俳諧観を示し、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称されたりもしています。1724年(享保9)に大坂で起きた享保の大火で自宅が焼けて、一時疎開するなど晩年は苦労をし、1738年(元文3年8月2日)に、大坂鰻谷(現在の大阪市中央区鰻谷)で、数え年78歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「春風や 三穂の松原 清見寺」(仏兄七久留万)、「後のつき 入りて貌よし 星の空」、「によつぽりと 秋の空なる 不尽(ふじ)の山」(古今句集)、「行水の 捨てどころなし 虫の声」

【鶉衣】(うずらごろも)

 江戸時代の俳人横井也有著の俳文集です。半紙本12冊 (前編、後編、続編、拾遺) からなり、240編余を収録、作者の死後、大田南畝により前編が1787年(天明7)、後編が翌1788年(天明8)に江戸蔦屋から出版され、その後石井垂穂により、続・拾遺編が1823年(文政6)に、名古屋永楽屋から刊行されました。日常生活・自然・和漢の故事・俗諺・詩心・紀行などを書いたもので、軽妙洒脱な技巧を極めた文章として知られています。江戸時代の俳文中、屈指の作品で、松尾芭蕉著の「風俗文選」とともに俳文の双璧をなすものとされてきました。題名の由来は、ウズラの羽毛に似てつづれのような文章だとの意味で、卑下して名付けたものとされます。

【内津草】(うつつぐさ)

 江戸時代の俳人横井也有著の紀行文です。也有に私淑し、尾張国春日井郡内津村(現在の愛知県春日井市内津町)に住んでいた俳人長谷川善正(号は三止)は、かねてから内津に松尾芭蕉の句碑を建立したいと考え、その揮毫を也有に依頼し、「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と書いてもらいます。その碑が建立できたので、1773年(安永2)に、三止はそれを見てもらうため、也有を内津村の自宅に招いたのでした。也有は同年8月18日(新暦10月4日)に、門人の石原文樵、也陪と共に、内津村まで旅をします。8月27日(新暦10月13日)まで10日間も三止宅に滞在して、寺社(妙見宮、見性寺、虎渓山永保寺)や試夕亭を訪ねたり、5回もの句会を開いたりして遊びました。帰宅してから8月中に草稿とも言える『蘿隠君内津紀行』を書き、9月に入ってから、推敲を重ねた上で、紀行文ともいうべき『内津草』1巻を著しました。それが也有の没後、太田南畝や石井垂穂らが編纂・刊行した也有著『鶉衣』に入っていて、世間に知られることとなります。文章は、軽妙洒脱で、その中に俳句、狂歌、漢詩を散りばめていて、旅の様子がよくうかがえるものとなりました。

横井也有が逗留した沈流台跡(愛知県春日井市内津町) 郷土館庭の也有句碑「夜と昼と…」(春日井市鳥居松町)

【大田 南畝】(おおた なんぽ)

 狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人です。江戸時代中期の1749年(寛延2年3月3日)に、江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の父・大田正智(吉左衛門)と母・利世の嫡男として生まれましたが、本名は覃(ふかし)と言いました。15歳の時、江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門、国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学び、17歳の時には、父に倣い御徒見習いとして幕臣となったものの、学問は続けます。1766年(明和3)頃に、荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行、翌年には、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、狂詩文『寝惚先生文集』(平賀源内の序)を刊行しました。1769年(明和6)頃より、「四方赤良」と号し、1779年(安永8)に、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催し、翌年には、黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版します。1783年(天明3)に、朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編纂、1785年(天明5年)には、『徳和歌後万載集』を編し、当時の天明調狂歌の一大集成をなしました。1787年(天明7)に、横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂・出版、翌年には、重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出したりしています。寛政改革による粛正政策の台頭を機に、いったん幕吏の仕事に専念、1794年(寛政6)に、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格、1796年(寛政8)には支配勘定に任用されました。1799年(寛政11)に孝行奇特者取調御用、1800年(寛政12)に御勘定所諸帳面取調御用、1801年(享和元)に大坂銅座に約一年間赴任、1804年(文化元)に長崎奉行所へ赴任、1808年(文化5)には、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就きます。1812年(文化9)に息子の定吉が支配勘定見習として召しだされたものの、自身は心気を患って失職しました。この間、江戸文人の代表格として名声をあげ、晩年の1820年(文政3)には、『杏園詩集』を出版したりしましたが、1823年(文政6年4月6日)に、江戸において、数え年75歳で亡くなっています。尚、号を蜀山人、狂歌名を四方赤良、戯作名を山手馬鹿人、狂詩名を寝惚先生などと称しました。

【奥の細道】(おくのほそみち)

 江戸時代中期に俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が書いた紀行文で、最も代表的なものです。1689年(元禄2)の3月27日(陽暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行のもので、9月6日(陽暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。現在では、各所に句碑や資料館が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、いにしえの芭蕉の旅を偲ぶことも可能です。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。

<収載されている代表的な句>
「夏草や 兵どもが 夢のあと」「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」「五月雨を あつめて早し 最上川」

芭蕉と曽良のブロンズ像 白河関跡の「奥の細道白川の関」の碑
原文で読みたい方TOSSランド『奥の細道』全文

【おらが春】(おらがはる)

 江戸時代後期の1819年(文政2)に成立した小林一茶著の俳諧俳文集です。一巻一冊からなり、没後25年の1852年(嘉永5)に刊行されました。一茶57歳の年の元旦から歳末までの身辺雑記や感想などを晩年に初めて得た女児への深い愛、その死に対する悲嘆を中心に発句を交えて記したものです。21の章段からなり、発句を交えて日記風に記していて、一茶の晩年の円熟境を示す代表作とされてきました。信州の白井一之が山岸梅塵家伝来の真跡を譲られて、逸淵序と四山人・西馬の跋を添えで刊行しています。書名は著者の命名ではなく、巻頭の一文中にある発句「めでたさも中くらゐなりおらが春」により、刊行者が名づけたものでした。尚、「一茶記念館」(長野県信濃町)には、詳しい資料が展示してあります。

<収載されている代表的な句>
「目出度さも ちう位也 おらが春」「我と来て 遊べや親の ない雀」、「名月を 取ってくれろと なく子哉」

【加賀千代女(千代尼)】(かが の ちよじょ)

 江戸時代中期の俳人です。1703年(元禄16)に、加賀国松任(現在の石川県白山市八日市町)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれました。12歳の頃に奉公した本吉の北潟屋主人岸弥左衛門(俳号半睡、のち大睡)に俳諧を学び、1719年(享保4)17歳のとき、北越行脚中の各務支考にその才を認められ、諸国に知られるようになります。通説では 18歳の頃、金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し1子をもうけ、夫や子に死別して松任に帰ったとされますが、結婚しなかったとも言われてきました。1725年(享保10)に、京の東本願寺に参詣、その途上伊勢俳壇中川乙由を訪問して入門します。1727年(享保12)には、支考の門人仙石廬元坊の来訪をうけ「松任短歌行」をなし、女流俳人として有名となりました。1754年(宝暦4)に剃髪して素園と号し、居室を草風庵と称するようになります。1764年(明和元)に、既白編の『千代尼句集』(546句載録)が刊行され、1771年(明和8年)には、その後編『俳諧松の声』(327句載録)が刊行されました。「朝顔に つるべ取られて もらい水」など平俗で親しみやすい句を詠みましたが、1775年(安永4年9月8日)に、加賀において、数え年73歳で亡くなっています。尚、生涯で1,700余の句を成したとされますが、辞世の句は「月も見て 我はこの世を かしく哉」でした。

<代表的な句>
「池の雪 鴨あそべとて 明てありり」、「昼顔の 行義に夜は 痩にけり」、「昼顔の 行義に夜は 痩にけり」、「月も見て 我はこの世を かしく哉」(辞世)

【各務 支考】(かがみ しこう)

 江戸時代の俳人・蕉門十哲の一人です。江戸時代前期の1665年(寛文5)に美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜県岐阜市)の村瀬吉三郎の二男として生まれました。1671年(寛文11)の5歳の時、父が亡くなり、大智寺第4世の弟子として大智寺に住居するようになり、1675年(延宝3年)の10歳の時、はじめて俳句を作ったとされます。1683年(天和3)の18歳の時、姉の嫁ぎ先である各務甚平の養子となり、伊勢山田に行き、医学・俳諧・漢学の勉強を始め、翌年には、還俗して乞食僧として諸国行脚を開始しました。1690年(元禄3)の25歳の時、涼菟の仲立ちで近江の大津にある無名庵を訪ねて松尾芭蕉の弟子になり身の回りの世話をし、各務支考と名乗るようになります。1692年(元禄5)の27歳の時、春から夏にかけて奥羽を行脚し、俳論書『葛の松原』上梓しました。1694年(元禄7)に芭蕉の難波への旅立に、惟然と共に同行、同年10月12日には、芭蕉を看病して、遺書を代筆し、臨終を看取り、『芭蕉翁追善之日記』を著します。翌年に美濃派の一風を樹立して、芭蕉の遺吟・遺文を集めて『笈日記』を編集、伊勢山田に草庵「十一庵」を結び拠点としました。1698年(元禄11)には西国を旅して蕉風俳諧の伝播に努め、『続猿蓑』の編纂にも加わり、刊行します。1701年(元禄14)に近江から越前、加賀、越中の旅し、1705年(宝永2年 に讃岐から伊予の間を徘徊、翌年には越後を行脚するなど各地を訪れて、普及活動をしました。1711年(正徳元)の46歳の時、伊勢を去り、故郷北野村に戻って「獅子庵」を営み、「終焉記」を書いて、自らの葬儀を催す佯死事件を起こし、風狂な面も見せます。1718年(享保3)に『本朝文鑑』を編纂、翌年に『俳諧十論』を刊行、旅先で加賀千代女を発掘するなどしました。俳壇形成や俳諧の理論的普及に努めましたが、1730年(享保15)に蘆元坊を美濃派の後継とし、翌年2月7日に美濃国山県郡北野村で、数え年67歳で亡くなり、大智寺に葬られ、法名を「梅花仙」とされます。

<代表的な句>
「野に死なば 野を見て思へ 草の花」(越の名残)、「鶯の 肝つぶしたる 寒さかな」、「腹立てる 人にぬめくる なまこ哉」、「腹立てる 人にぬめくる なまこ哉」、「賭にして 降出されけり さくら狩」(続猿蓑)、「むめが香の 筋に立よる はつ日哉」(炭俵)、「牛呵(しか)る 声に鴫(しぎ)立つ ゆふべかな」、「宇治に似て 山なつかしき 新茶かな」

【加藤 暁台】(かとう きょうたい)

 江戸時代中期の俳人・蕉風復興運動の中心者で、名古屋三大俳人の一人とされています。江戸時代中期の1732年(享保17年9月1日)に、尾張藩士岸上林右衛門の子として名古屋に生まれましたが、名は周挙(かねたか)と言いました。同藩士加藤仲右衛門の養子となり、加藤姓となり、17歳で尾張徳川家に出仕し、江戸の尾張藩邸において右筆部屋総帳方を務めます。俳諧は、1751年(宝暦元)頃に、武藤巴雀の門に入って他朗と号し、翌年に巴雀が亡くなると、その子白尼に師事し、買夜(ばいや)と号しました。1759年(宝暦9)の28歳の時、致仕して脱藩し、江戸を去って、俳諧に専念するようになります。名古屋を中心に「暮雨巷(ぼうこう)」と称する一派を形成、1763年(宝暦13)に、記念集『蛙啼集』を出し、始めて暁台を名乗り、1768年(明和5)には、『姑射文庫』を刊行し、明和年間に至って、名古屋前津に竜門と称する庵を結びました。1770年(明和7)に名古屋を立ち、松尾芭蕉『奥の細道』の跡を辿り、『しをり萩』を出し、1772年(安永元)には、『秋の日』(暁台編・也有序)を刊行して、蕉風復興の意図を明らかにします。安永年間(1772~81年)に、与謝蕪村一派と交遊して、中興俳諧の一中心となり、『去来抄』、『熱田三歌仙』(共に1775年)を世に紹介するに至りました。1783年(天明3)には、湖南幻住庵(義仲寺)、洛東安養寺端寮、金福寺芭蕉庵の3ヶ所において、芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行します。1790年(寛政2)に、京都二条家に召されて俳諧宗匠の免状を受け、名声を高めました。高雅優美で多様な作風を示し、蕪村と並んで中興俳諧の代表的俳人とされましたが、1792年(寛政4年1月20日)に、京都において、数え年61歳で亡くなり、翌年には、一周忌の追悼集『落梅花』(臥央編)が出されています。

<代表的な句>
「秋の雨 ものうき顔に かかるなり」、「秋の蚊や 香の煙の 前を行く」、「あら海や 波をはなれて 秋の雲」、「人の親の 焼野のきゝす うちにけり」、「桐の花 寺は桂の 町はづれ」、「馬の尾を むすび揚げたる 雪間かな」、「梅林に 夜のほこりや 薄曇り」(辞世)

【加舎 白雄】(かや しらお)

 江戸時代中期の俳人で中興五傑の一人です。1738年(元文3年8月20日)に、江戸・深川の上田藩深川抱屋敷において、上田藩江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれましたが、幼名を五郎吉。本名は吉春、また競と言いました。5歳の時に母に死別、16歳の時に俳句を知り、19歳の時に、初めて上田へ移住し、宝暦末期に宗匠の青峨門に入門して舎来と号し、11765年(明和2)の銚子滞在中に、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称するようになります。1766年(明和3)に、白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚し、翌年には、俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れました。1769年(明和6)に、姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立、1770年(明和7)には、鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、『おもかげ集』を刊行します。1771年(明和8)に上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代女、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行しました。1772年(安永元)に伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰り、翌年には、斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出ています。1775年(安永4)に海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚、1779年(安永8)に初めて白雄の号を使うようになり、翌年には、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立しました。しかし、1783年(天明3)に春秋庵は火災に遭って復興したものの、1786年(天明6)には再び類焼し、日本橋馬喰町に移転します。1788年(天明8)に海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、武州毛呂の碩布亭を訪問し、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行しました。1790年(寛政2)に上田へ行って虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑のために揮毫しましたが、翌年9月13日に、江戸・日本橋の春秋庵において、数え年54歳で亡くなっています。尚、妻帯せず清貧孤高だったものの、門人は、関東から中部地方に4,000人を数え、俳人として名を知られた者だけでも200人以上いたと言われてきました。没後、1793年(寛政5)の三回忌に春秋庵社中が句碑を建立、1798年(寛政10)には、追善集『くろねぎ』が刊行されています。

<代表的な句>
「みちのくの空たよりなや霜の声」、「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」、「いなづまやとゞまるところ人のうへ」、「吹つくし後は草根に秋のかぜ」

【柄井 川柳】(からい せんりゅう)

 江戸時代中期の前句付点者です。1718年(享保3)に、代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主の家系に生まれましたが、幼名は勇之助(のち正通)と言いました。初め談林派の点者であったともいわれますが、1755年(宝暦5)38歳のときに家を継いで名主となります。1757年(宝暦7年8月25日)に前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行し、山手を中心地盤に、以後毎年8月から年末まで、月3回5のつく日に句合を興行しました。1762年(宝暦12)には応募句が1万句を超して人気を博し、明和年中(1764~72年)には江戸の第一人者となります。1765年(明和2)に、その選句の中から前句付作者呉陵軒可有の協力を得て756句選び、前句抜きで『誹風柳多留 (はいふうやなぎだる) 』として出版しました。これによって、いわゆる川柳というジャンルを確立し、その後『誹風柳多留』は 24編出版されましたが、1790年(寛政2年9月23日)に、江戸において、数え年73歳で亡くなっています。尚、川柳の号は16世(尾藤川柳)まで受け継がれてきました。

<代表的な句>
「侍が来ては買ってく高楊枝」、「役人の子はにぎにぎを能く覚え」、「芭蕉翁ぽちゃんと云ふと立ちどまり」、「五右衛門はなまにえの時一首よみ」、「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」、「是小判たった一晩居てくれろ」、「駿河丁畳のうへの人通り」、「けんやくを武芸のようにいゝ立てる」、「人は武士なぜ蔵宿にあてがわれ」、「抜けば抜け後で竹とはいはさぬぞ」、「いにしへは某今はなにもなし」、「れんこんはここらを折れと生まれつき」、「百両をほどけば人をしさらせる」、「駕籠賃をやつて女房はつんとする」、「初鰹家内残らず見た計」、「母親はもつたいないがだましよい」、「碁敵は憎さも憎しなつかしさ」、「寝てゐても団扇の動く親心」、「後家の質男ものから置きはじめ」

【北村 季吟】(きたむら きぎん)

 江戸時代の歌人・俳人・和学者です。江戸時代前期の1625年1月19日(寛永元年12月11日)に、近江国野洲郡北村(現在の滋賀県野洲市)の医師だった父・北村宗円の修業先の京都で出生したとされますが、名は静厚(しずあつ)と言いました。祖父・宗竜と父・宗円が連歌を能くし、医業修行の傍ら、早くから俳諧に親しみます。京都に出て、16歳で安原貞室に、22歳で松永貞徳に入門、1648年(正保5)には、処女作『山之井』を刊行しました。1653年(慶安6)に『紅梅千句』の大興行に参加し跋文も書き、1655年(明暦元)に中国宋代の劉向の「列女伝」を翻訳し『仮名烈女伝』を出しましたが、1656年(明暦2)には、『誹諧合』を出して独立を宣言します。1660年(寛文元)に句集『新続犬筑波集』を編集し、1673年(延宝元)には、俳論書『埋木』を刊行しました。また、飛鳥井雅章・清水谷実業に和歌、歌学を学び、『徒然草文段抄』(1667年)、『源氏物語湖月抄』(1673年)、『枕草子春曙抄』(1674年)、『伊勢物語拾穂抄』(1680年)、『八代集抄』(1682年)などの注釈書も出しています。1683年(天和3)に京都新玉津島神社の社司となり、天和年間には、俳業をほとんど廃して古典注釈に没頭したとされてきました。1689年(元禄年)に、子息の湖春と共に幕府歌学方500石として召され、江戸に下ったものの、1697年(元禄10)に子息の湖春が亡くなり、1699年(元禄12)には、再昌院の号と法印の称号を受けています。門下からは、山岡元隣、松尾芭蕉山口素堂などを輩出しましたが、1705年(宝永2年6月15日)に、江戸において、数え年82歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「一僕(いちぼく)と ぼくぼくありく 花見かな」、「鳥篭の 憂目見つらん 郭公」(あら野)、「いままいり はじめははつか だんごかな」、「棚をかざる 松の葉越しや 若戎」、「雲のうへの 白馬や七の ほしあしげ」、「かづく綿は 踏哥のせちに さりやう哉」、「書初や 万歳の点を うち祝」

【去来抄】(きょらいしょう)

 向井去来(蕉門十哲の一人)著の俳諧論書で、江戸時代中期の1704年(宝永元)頃に成立したと考えられ、1775年(安永4)に刊行されました。松尾芭蕉からの伝聞、蕉門での論議、俳諧の心構え等をまとめた芭蕉の俳論を集成したものです。

【葛の松原】(くずのまつばら)

 各務支考蕉門十哲の一人)著の俳諧論書で、江戸時代中期の1692年(元禄5)に刊行された。松尾芭蕉宝井其角などの句を風雅、趣向等についての考え方を示す40項目について、随筆風にまとめたもの。

【小林 一茶】(こばやし いっさ)

 江戸時代後期に活躍した俳人です。1763年(宝暦13年5月5日)に、信濃国水内郡柏原村(現在の長野県水内郡信濃町)の中農であった父・農業弥五兵衛、妻・くにの長男として生まれましたが、本名は弥太郎といいました。3歳で母を失い、8歳のとき迎えた継母と折り合いが悪く、15歳の頃江戸へ出て奉公します。俳諧をたしなむようになり、25歳頃には、葛飾派(素堂)の二六庵竹阿に俳句を学ぶようになりました。29歳で葛飾派の執筆になり、師の死後、1792年(寛政4)から6年間、西国に俳諧修行に出、1795年(寛政7)には、撰集『旅拾遺』を刊行します。1801年 (享和元) に父の没後、継母子と遺産を10年余り争い、1813年(文化 10)に帰郷し、遺産を2分することで解決しました。1814年(文化11)には、江戸俳壇を引退し信濃へ帰郷する一茶の江戸俳壇引退記念撰集として『三韓人』が刊行されます。52歳で初めて結婚し、門弟のところを回ったりしていますが、4人の子どもと妻に先立たれます。後妻ゆきとも3ヶ月で離婚し、3度目の妻やをを迎えたものの、その翌年は大火で家を焼くなど不遇が続きます。火災後は、土蔵暮らしをしていましたが、1828年(文政10年11月19日)に、三度目の中風に罹り、65歳で亡くなりました。不幸が続く中で、俗語・方言を交え、自嘲と反逆精神に基づく独自の作風を示し、発句はニ万句以上に及び、句文集『おらが春』は有名です。死後刊行されたものも多く、明治時代以降に注目され、松尾芭蕉与謝蕪村と並ぶ江戸時代の俳人とされるようになりました。郷里の柏原に一茶旧宅(国指定史跡)が残り、「一茶記念館」も建てられています。

<代表的な句>
「是がまあ つひの栖か 雪五尺」、「めでたさも 中くらいなり おらが春」、「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」、「やれ打つな 蠅が手をすり 足をする」、「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」

小林一茶像(長野県信濃町) 一茶記念館(長野県信濃町)

【里村 紹巴】(さとむら じょうは)

 戦国時代から安土桃山時代に活躍した連歌師です。戦国時代の1525年(大永5)に、奈良において生まれましたが、父は奈良一乗院の御小者(湯屋を業とも)だった松井昌祐とも言われてきました。12歳で父を失って興福寺明王院の喝食(寺院に入って雑用をつとめる少年)となり、そのころから連歌を学んだとされ、19歳のとき奈良にきた連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は里村昌休(しょうきゅう)に師事したとされます。また、三条西公条(きんえだ)に和歌、物語を学び、昌休の没後は、遺児昌叱(しょうしつ)を養育、里村姓を名乗るようになりました。1564年(永禄7)、40歳のとき谷宗養が没して、連歌界の第一人者となり、近衛稙家、三好長慶、細川幽斎らと交友を深めます。織田信長・豊臣秀吉らとも交渉があり、1582年(天正10)の本能寺の変直前の明智光秀の「愛宕百韻」に参加したことで知られてきました。秀吉の毛利攻めの戦勝祈願「羽柴千句」も有名で、連歌論『連歌至宝抄』を秀吉に進上、多くの百韻、千句を残し、式目書・式目辞典・古典注釈書なども著します。しかし、1595年(文禄4)に豊臣秀次の事件に連座して、三井寺に蟄居させられ、のち許されますが、失意のうち、1602年(慶長7)に、数え年79歳で亡くなりました。尚、紹巴の子孫が里村本家(北家)、娘婿の里村昌叱の子孫が里村南家と呼ばれて、代々江戸幕府の御連歌師として仕えています。

【猿蓑】(さるみの)

 向井去来(蕉門十哲の一人)・野沢凡兆編の蕉門の発句・連句集で、江戸時代中期の1691年(元禄4)に、京の井筒屋庄兵衛の手により刊行されました。俳諧七部集の内の一つで、発句382句、連句歌仙4巻、幻住庵記、几右日記が収載されていて、蕉風完成期の俳諧集であるとされています。

【志太 野坡】(しだ やば)

 江戸時代の俳人で蕉門十哲の一人です。江戸時代前期の1662年(寛文2年1月3日)に、越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれましたが、幼名を庄一郎、通称を弥助、半次郎と言いました。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店に勤め、手代となりましたが、宝井其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされます。1687年(貞享4)の其角撰『読虚栗』に初めて野馬の名が見え、1693年(元禄6)には、松尾芭蕉の指導を受けるようになったとされてきました。1694年(元禄7)に越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加し、1695年(元禄8)には、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、森川許六から芭蕉の画像を贈られています。1698年(元禄11)に江戸を立ち、途中に膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向き、1699年(元禄12)の芭蕉の七回忌には撰文して、長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立し、1701年(元禄14)に江戸に戻り、越後屋の番頭を辞めました。1702年(元禄15)から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎、田代、久留米、日田、博多などを巡って、多くの弟子を獲得します。1704年(元禄17)に大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となりました。1708年(宝永5)に筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着、1710年(宝永7)には、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行します。1714年(正徳4)から翌年にかけて、森川許六と俳論書翰の応酬を行いました。1724年(享保9年)に大火に遭って無一文になり、翌年、難波に浅生庵(あそうあん)を新築します。その後、積極的に上方や九州を行脚して、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くし、その数は、千人を越え、後世に名を残すこととなりました。作風は軽み・枯淡を旨とし平明で、温厚な人柄として親しまれたものの、1740年(元文5年1月3日)に、大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなっています。

<代表的な句>
「鉢まきを とれば若衆ぞ 大根引」(炭俵)、「朝霜や 師の脛おもふ ゆきのくれ」、「寒きほど 案じぬ夏の 別れ哉」、「ちからなや 膝をかかえて 冬篭り」、「手まはしに 朝の間凉し 夏念仏」(続猿蓑)、「金屏の 松の古さよ 冬篭り」(許六宛芭蕉書簡)

【蕉門十哲】(しょうもんじゅってつ)

 松尾芭蕉の十人の有力門人ことです。一般には、竹内青々編『続俳家奇人談』(1832年)の与謝蕪村筆とされる賛画に描かれた10人(宝井其角服部嵐雪各務支考森川許六向井去来内藤丈草志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)とされることが多いのですが、そのうち其角、嵐雪、去来、丈草は江戸時代の諸書を通じてあげられているものの、他は、河合曽良、松倉嵐蘭、広瀬惟然、三上千那、天野桃隣、野沢凡兆、山本荷兮、菅沼曲翠、水田正秀、槐本諷竹、江左尚白、浜田洒堂、中川乙由、服部土芳、斯波園女らと入れ替えられていることがあります。

【宗祇】(そうぎ)

 室町時代の連歌師・古典学者です。1421年(応永28)に生まれたとされますが、生国は紀伊とも近江とも言われ、姓は飯尾とも言われるもののはっきりしません。若年より京都相国寺に入り、30歳のころより文芸を志したとされます。連歌を宗砌(そうぜい)、心敬、専順に師事し、和歌・古典を飛鳥井雅親、東常縁(とうのつねより)、一条兼良らに学び、神道の教を卜部兼倶に受けました。1461年(寛正2)独吟の『何人百韻』が現存する最初の連歌作品で、各地の連歌会に参加して、頭角を現します。1471年(文明3)、伊豆に出陣中の常縁より『古今和歌集』の講釈を聴聞し、古今伝授を受けたとされてきました。1473年(文明5)以後、公家や将軍、管領の居住する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、自撰句集『萱草(わすれぐさ)』を編み、先達7人の句を集めた『竹林抄』を撰します。1480年(文明12)に大内政弘の招きにより山口に下り、その勢力下の北九州を回って、『筑紫道記』を著しました。三条西実隆、細川政元ら公家、幕府要人と親交を結び、1488年(長享2)に北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となります。1495年(明応4)に猪苗代兼載、一条冬良らと『新撰菟玖波集』を撰集しました。また、『古今和歌集』、『源氏物語』など多くの古典を講釈し、その注釈の書を残しています。大名高家に招かれ、各地を旅して連歌を普及、古典一般にも通じ、文化の地方伝播にも貢献しましたが、1502年(文亀2年7月30日)に、旅の途中の相模国箱根湯本において、数え年82歳で亡くなりました。

【宝井 其角】(たからい きかく)

 江戸時代の俳人で、蕉門十哲の一人とされています。江戸時代前期の1661年(寛文元年7月17日)に、江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれ、初め、母方の姓榎本を名乗りました。草刈三越に医、大顚和尚に禅・詩・易、服部寛斎に儒、佐々木玄竜に書、英一蝶に絵を学びます。早熟の才子で、15歳頃に松尾芭蕉の門に入り、1679年(延宝7)に刊行された『坂東太郎』に発句3句が載りました。20歳代の頃、天和調が盛んな中で、芭蕉の指導の下に、俳諧集『田舎之句合(いなかのくあわせ)』、『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などを編纂しています。1688年(貞享5)に上方へ旅立ち、膳所水楼に遊んだり、嵯峨を吟遊したりし、江戸に戻って宝井を名乗るようになりました。1690年(元禄3)に俳諧集『いつを昔』を刊行、翌年には、俳諧集『猿蓑』(去来・凡兆共編)に序文を寄せ、芭蕉と共に句会に連なるなど、蕉風の樹立、展開に寄与し、服部嵐雪とともに蕉門の桜桃と並称されています。1694年(元禄7)に上方へ旅立ち、偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じ、芭蕉没後に追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行しました。その後は、洒落ふうに傾き、江戸座を興し、豪放闊達な都会風な作風として知られています。晋永機、藤井晋流、稲津祇空、常盤潭北はじめ、門人も多く育てましたが、1707年(宝永4年2月30日)に、江戸において、数え年47歳で亡くなりました。尚、死後に遺稿集『類柑子』(1707年)や発句集『五元集』(1747年)が刊行されています。

<代表的な句>
「草の戸に 我は蓼食ふ 蛍哉」(虚栗)、「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな」(武蔵曲)、「暁の 反吐は隣か 時鳥」(焦尾琴)、「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)、「なきがら を笠に隠すや 枯尾花」(枯尾花)、「夢に来る 母をかへすか 時鳥」(続虚栗)、「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)、「雪の日や 船頭どのゝ 顔の色」(あら野)

【立花 北枝】(たちばな ほくし)

 江戸時代の俳人で、蕉門十哲の一人とされています。生年は不詳ですが、加賀国小松町研屋小路に生まれ、後に金沢へ移住、兄牧童と刀研ぎを業とし、通称を研屋 (とぎや) 源四郎と言いました。初め談林系に属したとされ、1680年(延宝8)に神戸友琴編『白根草』、1681年(天和元)に杉野長之編『加賀染』、1685年(貞享2) 鈴木清風編『稲筵』、1687年(貞享4)に江左尚白編『孤松』に、兄牧童とともに句が載せられています。1688年(元禄元)に小杉一笑没に際し、追悼の句「佛にもなられう秋の庵すき」を詠み、また翌年刊行の山本荷兮編『曠野』にも、兄牧童とともに句が載せられていました。1689年(元禄2年7月)に『奥の細道』の旅で金沢を訪れた松尾芭蕉に、兄牧童と共に入門、越前国松岡まで随行、8月11日に、町はずれの茶屋で芭蕉と別れています。『奥の細道』には「所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ」という北枝評が載せられました。随行中に得た芭蕉の教えを筆録したものをもとに後年刊行された『三四考』(1836年)、『やまなかしう』(1839年)、『山中(やまなか)問答』(1862年)は、芭蕉の連句研究上の貴重な資料とされています。1690年(元禄3年3月)の金沢の大火で類焼しましたが、「焼にけりされども花はちりすまし」と詠み、芭蕉らの称賛を得ました。1691年(元禄4)に楚常の編んだものに北枝が増補した『卯辰集』を刊行、1694年(元禄7)に芭蕉の亡くなったことを知ると1697年(元禄10)の芭蕉三回忌では、義仲寺に参詣し、記念の集『喪の名残』を編んでいます。また、1701年(元禄14)刊行の『射水川』、1707年(宝永4)刊行の『日和山』、1708年(宝永5)刊行の『桃盗人』に序跋を書きました。金沢の蕉門の中心的存在として活躍してきたものの、1718年(享保3年5月12日)に金沢において亡くなり、没後に追善集『けしの花』を覇充が刊行しています。

<代表的な句>
「馬かりて燕追ひ行く別れかな」(山中集) ・「焼にけりされども花はちりすまし」 ・「川音やむくげ咲(さく)戸はまだ起(おき)ず」 ・「書て見たりけしたり果はけしの花」(辞世)

【菟玖波集】(つくばしゅう)

 二条良基、救済撰による、わが国最初の連歌集で、南北朝時代の1356年(正平11/延文元)に成立し、翌年准勅撰連歌集となりました。古代から南北朝時代に至る連歌(付句2,000余、発句約120)を二十巻に編集したものです。

【内藤 丈草】(ないとう じょうそう)

 江戸時代の俳人・蕉門十哲の一人です。江戸時代前期の1662年(寛文2)に尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)で、尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれましたが、名は本常(もとつね)と言いました。3歳の時に生母と死別し、継母に育てられ、10歳頃から俳諧に親しむようになります。漢学を穂積武平に学び、漢詩に通じるようになり、禅を玉堂和尚に教えられて、20歳頃から傾倒しました。1688年(貞享5年)に病弱のため武士を捨て、異母弟に家督を譲り、出家して中村史邦を頼って上京し、向井去来と親交を結びます。翌年に落姉舎で松尾芭蕉に会い入門、1691年(元禄4)発刊の去来・凡兆撰『猿蓑』に発句12句が入集し、跋(ばつ)を書くまでになりました。蕉門俳壇の中で次第に重きをなし、芭蕉の信頼も得て、1693年(元禄6)には近江国に移り、義仲寺無名庵に住みます。翌年10月12日に師の芭蕉が亡くなると、3年間の喪に服し、1696年(元禄9)には近江国竜が岡(現在の滋賀県大津市)に仏幻庵を結びました。1700年(元禄13)に郷里に一時帰省後、帰庵して3年間庵に籠り、芭蕉追善のために千部の法華経を読誦します。温厚篤実、名利に恬淡な人柄で、洒脱な面もあり諸人に慕われましたが、1704年(元禄17年2月24日)に近江において、数え年43歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「初秋や をのづととれし 雲の角」(寝ころび草)、「郭公(ほととぎす) 鳴や湖水の さゝにごり」(芭蕉庵小文庫)、「うづくまる 薬缶の下の 寒さ哉」(去来抄)、「眞先に 見し枝ならん ちる櫻」(猿蓑)、「角いれし 人をかしらや 花の友」(続猿蓑)、「大はらや 蝶の出てまふ 朧月」(炭俵)

【西山 宗因】(にしやま そういん)

 江戸時代前期の連歌師・俳人・談林派の祖です。1605年(慶長10)肥後国八代(現在の熊本県八代市)で、肥後熊本加藤家家臣の父・西山次郎左衛門の子として生まれましたが、名は豊一(とよかず)と言いました。肥後八代城代加藤正方の小姓として仕え、連歌を愛好する正方の感化を受け、各地の連歌会に出席し、作品を残すようになりました。17歳から26歳まで京都へ遊学し、里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだものの、1632年(寛永9)に主家改易で浪人となります。翌年上洛し、昌琢の庇護を受け、京都の連歌会に出席、また江戸の武家連歌壇とも関係を持つようになりました。1647年(正保4)に、長らく中絶していた大坂天満宮の連歌所宗匠に迎えられ、1649年(慶安2)には、天満宮月次(つきなみ)連歌を再興、1652年(慶安5)には菅家神退七百五十年万句を興行するなどしています。全国各地に門人が出来、その招きを受けて出向くことも結構あって、『津山紀行』(1653年)、『松島一見記』(1663年)、『西国道日記』(1665年)などの紀行も残しました。一方で俳諧も始め、自由・斬新な作風は、貞門の古風にあきたらない俳人たちに支持されて、延宝年間(1673~81年)には談林派俳諧の第一人者となり、門下から井原西鶴・岡西惟中・菅野谷高政・松尾芭蕉・田代松意などを輩出します。晩年には、談林末流の放縦乱雑に愛想をつかし、連歌に回帰しましたが、1682年(天和2年3月28日)に、数え年78歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「さればこそ 爰(ここ)に談林の木あり 梅の花」、「里人の わたり候ふか 橋の霜」、「阿蘭陀の 文字か横たふ 天つ雁」、「世の中よ 蝶々とまれ かくもあれ」、「青海苔や 浪の渦巻く 摺小鉢」

【服部 嵐雪】(はっとり らんせつ)

 江戸時代の俳人・蕉門十哲の一人です。江戸時代前期の1654年(承応3)に、江戸の湯島(淡路国三原郡小榎並村とする説あり)で、淡路出身の下級武士の父・服部喜太夫高治の子としてに生まれましたが、幼名は久馬之助(長じて孫之丞)、名は治助(はるすけ)と言いました。初め新庄隠岐守に出仕しましたが、以後は転々と主を替えながら武家奉公を続けます。その間、1675年(延宝3)頃に松尾芭蕉に入門し、1678年(延宝6)に不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見となりました。1680年(延宝8)に同門宝井其角の『田舎之句合』に序を書き、『桃青門弟独吟廿歌仙』、『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに入集し、頭角を現します。貞享年間(1684~87年)に武士をやめて俳諧に専念し、1688年(貞享5)には『若水』を刊行して世に知られ、宗匠として立ちました。穏健な俳風で、其角と共に「蕉門の桃桜」と称され、1694年(元禄7)の芭蕉没後は、其角と江戸俳壇を二分します。その一派を雪門とも呼ばれ、高野百里らを育て、後年は黄檗禅に帰依して剃髪し、不白玄峯居士と号しました。しかし、1707年(宝永4年10月13日)に、江戸において、数え年54歳で亡くなり、辞世の句は「一葉散る 咄ひとはちる 風の上」とされています。

<代表的な句>
「出替りや 幼ごころに 物あはれ」(猿蓑)、「蒲団着て 寝たる姿や 東山」(枕屏風)、「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」、「この下に かくねむるらん 雪仏」

【松尾 芭蕉】(まつお ばしょう)

 俳諧文学の第一人者・俳聖です。江戸時代前期の1644年(寛永21)に、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)において(伊賀国柘植出生説あり)、士分待遇の農家の松尾与左衛門の子として生まれましたが、幼名は金作、本名は宗房と言いました。若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『奥の細道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。弟子も多く、死後は蕉門の十哲(宝井其角服部嵐雪各務支考森川許六向井去来内藤丈草志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められます。

<代表的な句>
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」、「野ざらしを 心に風の しむ身哉」、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、「荒海や 佐渡によこたふ 天河」、「五月雨を あつめて早し 最上川」

松尾芭蕉木像(三重県伊賀市) 松尾芭蕉生家跡(三重県伊賀市)

【松永 貞徳】(まつなが ていとく)

 歌人・歌学者・俳人・貞門俳諧の祖です。安土桃山時代の1571年(元亀2)に、京都において、連歌師の父・松永永種、母・藤原惺窩の姉の子として生まれたとされますが、名は勝熊と言いました。和歌・歌学を九条稙通 (たねみち)、細川幽斎らから、連歌を里村紹巴から学び、林羅山や木下長嘯子などとも交わったと言われています。20歳頃に、豊臣秀吉の右筆となったとされますが、1597年(慶長2)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜りました。1600年(慶長5)の関ケ原の戦い後は、豊かな学殖をもって古典を講義、1615年(元和元)には、京都に私塾を開き、和歌や俳諧を指導します。俳諧の方式を定め、全国的に普及させた功績は大きく、貞門俳諧の祖ともされ、松江重頼、野々口立圃、安原貞室、山本西武 (さいむ)、鶏冠井 (かえでい) 令徳、高瀬梅盛、北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を育てました。また、歌人としては、木下長嘯子と共に地下歌壇の双璧をなし、狂歌作者としても一流とされています。俳書として『新増犬筑波集』(1643年)、『俳諧御傘 (ごさん) 』などを著しましたが、1654年1月3日(承応2年11月15日)に、京都において、数え年83歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「霞さへ まだらに立つや 寅の年」、「花よりも 団子やありて 帰る雁」、「鳳凰も 出でよのどけき とりの年」

【向井 去来】(むかい きょらい)

 江戸時代の俳人で、蕉門十哲の一人です。江戸時代前期の1651年(慶安4)に、肥前国長崎(現在の長崎市興善町)で、儒医向井元升の次男として生まれましたが、名は兼時、字は元淵(もとひろ)と言いました。1658年(万治元)に父に伴われて京都に移住しましたが、のち福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を学びます。しかし、結局仕官せず、1675年(延宝3)頃に武を捨てて京都に戻り、1677年(延宝5)に没した父を継いで典薬となった兄元端を助け、公家に出入りして神道家、陰陽家として天文や暦のことに携わりました。貞享年間 (1684~88年) 頃に、宝井其角を介して松尾芭蕉に入門、嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に隠棲して、俳諧に専心します。1689年(元禄2)に、近畿滞在中の芭蕉を落柿舎に招き、1691年(元禄4)の夏には、芭蕉の宿舎として提供、ここで『嵯峨日記』が執筆されました。同年、芭蕉の指導のもとで野沢凡兆と共に『猿蓑』を編纂し、蕉風を代表する撰集となります。1694年(元禄7)の芭蕉没後は、蕉風の忠実な伝え手として、其角や森川許六と論争し、『俳諧問答青根が峰』、『去来抄』、『旅寝論』など重要な蕉風俳論を執筆したものの、1704年(宝永元年9月10日)に、京都において、数え年54歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「秋風や 白木の弓に 弦はらん」、「湖の水 まさりけり 五月雨」、「をととひは あの山越つ 花盛り」、「尾頭の こころもとなき 海鼠哉」、「岩鼻や ここにもひとり 月の客」(去来抄)

【森川 許六】(もりかわ きょりく)

 江戸時代の彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人です。江戸時代前期の1656年(明暦2年8月14日)に、近江国彦根城下藪下(現在の滋賀県彦根市)において、佐々木高綱を遠祖とする300石取りの彦根藩士の父・森川與次右衛門の子としてに生まれましたが、幼名を兵助または金平、本名は百仲(ももなか)と言いました。宝蔵院流の槍を得意とし、狩野派の絵画や漢詩にも親しみ、延宝の始め(1670年代前半)頃に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとされます。21歳から井伊直澄に仕え、30歳前後から俳諧に執心し、尚白、嵐雪、其角に指導を受け、1689年(元禄2)33歳の時に、父の隠居により家督を継ぎました。1692年(元禄5)に公務で江戸に出た際、松尾芭蕉に入門し、許六と言う号を授けられ、1年間懇篤な指導を受けるとともに、芭蕉に絵を伝授します。翌年帰郷する際に芭蕉から「柴門之辞」と俳諧の奥伝書を授けられました。1694年(元禄7)の芭蕉没後からは、蕉風の理論化につとめ、向井去来らと俳論をかわした往復書簡を集めたものが、『俳諧問答』として残されています。彦根風の一派を形成し、『篇突』(1698年)、『宇陀法師』(1702年)の俳論書(李由との共編著)、俳文集『風俗文選』(1706年)、『正風彦根体』(1712年)、俳諧史論『歴代滑稽伝』(1715年)などを著しました。門下として、直江木導・松居汶村・北山毛紈・寺島朱迪などを指導しましたが、1715年(正徳5年8月26日)に、彦根において、数え年60歳で亡くなっています。

<代表的な句>
「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」、「秋も早か やにすぢかふ 天の川」、「うの花に 芦毛の馬の 夜明哉」、「茶の花の 香や冬枯の 興聖寺」、「苗代の 水にちりうく 桜かな」、「水筋を 尋ねてみれば 柳かな」、「もちつきや 下戸三代の ゆずり臼」

【山口 素堂】(やまぐち そどう)

 江戸時代前期・中期の俳人です。江戸時代前期の1642年(寛永19年5月5日)に、甲斐国北巨摩郡上教来石村(現在の山梨県北杜市)で、酒造業を営む郷士山口市右衛門の長子として生まれたとされていますが、名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛と言いました。少年時代に家族と共に甲府に移り、一時家業を継ぎましたが、20歳のころ弟に家督を譲って、江戸へ出ます。林鵞峰について漢学を修め、一時は儒学または算用の才をもって仕官しました。俳諧は1668年(寛文8)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見で、1674年(延宝2)に京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道なども修めています。1675年(延宝3)には、江戸下向中の西山宗因を歓迎する百韻の興行をして、当時まだ無名だった松尾芭蕉との交流が始まり、翌年には両人で『江戸両吟集』を発行するなどしました。1679年(延宝7)に38歳で職を辞し、上野不忍池のほとりに隠棲、以後次第に俳壇に重きをなすようになったものの、芭蕉らの新風を支持します。1685年(貞享2)頃に葛飾に移り、葛飾風の祖と言われるようになりますが、俳諧のみならず和歌、漢詩などの文芸や茶道、能楽などの芸能に親しみました。豊かな教養と洗練された趣味性に支えられた文人的な生涯を送ったものの、1716年(享保元年8月15日)に、江戸において、数え年75歳で亡くなっています。

<代表的な句>
「かへすこそ 名残おしさは 山々田」、「雨の蛙 聲高になるも 哀也」、「春もはや 山吹しろく 苣苦し」、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」

【山崎 宗鑑】(やまざき そうかん)

 戦国時代の禅僧・連歌師・俳人です。1465年(寛正6)に近江国で生まれたとされますが、出自については諸説あってはっきりしません。年少の頃より室町幕府第9代将軍足利義尚に仕え、近江守護佐々木高頼を攻めましたが、1489年(延徳元)に義尚が陣中で没したため剃髪し、摂津の尼崎に隠遁したと言われています。1488年(長享2)に摂津の能勢頼則興行の千句にその名がみえ、連歌を得意とし、一休宗純とも親しく、淀川河畔の山城国山崎に庵「對月庵」を結んだので、山崎姓で呼ばれるようになりました。また、能書家でその書は宗鑑流とも言われ、人々の依頼を受けて数々の古典を書写しています。連歌師宗長と俳諧の腕を競ったことは、『宗長手記』よって知られ、俳諧選集『犬筑波集』(古くは『俳諧連歌抄』と呼ばれた)を編纂したことは著名で、俳諧を独立した芸術とし、庶民世界を面白く詠みあげていて、近世俳諧の先駆をなすものでした。1523年(大永3)頃に山崎の地を去り、1528年(享禄元)に讃岐国(現在の香川県観音寺市)の興昌寺に「一夜庵」を結んだとされます。この地において、1554年(天文23年10月2日)に、89歳で亡くなったとされますが、後世には、荒木田守武とともに俳諧の祖とされるようになりました。尚、辞世は「宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとよう(ヨウ)がありて あの世へといへ」です。

【横井 也有】(よこい やゆう)

 江戸時代の武士・尾張藩士・国学者・俳人です。江戸時代中期の1702年(元禄15年9月4日)に、尾張国名古屋で尾張藩の御用人や大番頭を務めた父・横井時衡の長男として生まれましたが、名は時般(ときつら)と言いました。祖父・時英 (野双)、父・時衡 (一水) に俳諧の感化を受け、15歳の頃から自学自習をはじめたとされます。1727年(享保12)の26歳の時、父が他界して家督知行1000石を継承して普請組寄合となり、1730年(享保15)に御用人、1741年(元文6)の40歳の時、大番頭兼御用人となり、後寺社奉行を務めるなど藩の要職を歴任しました。文武に優れ、儒学を深く修めると共に、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事します。1745年(延享2)に、第8代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下ったりもしましたが、1754年(宝暦4)の53歳の時、病を理由に隠居し、名古屋郊外の前津(現・名古屋市中区前津)の草庵「知雨亭」にて風雅な余生を送りました。俳文、漢詩、和歌、狂歌、茶道などに親しむ風流人として知られ、俳文集『鶉衣(うずらごろも)』を初め、『野夫 (やふ) 談』(1762年)、連句集『蘿葉集』(1767年)、句集『垤 (ありづか) 集』(1770年)などを出しています。多芸多能で、書や謡曲等も能くしましたが、1783年(天明3年6月16日)に、尾張国名古屋において、数え年82歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「俎板(まないた)の なる日はきかず かんこ鳥」、「筏師に 何をか問む 青あらし」、「くさめして 見失ふたる ひばりかな」、「綿入れを 木曽路の夏や 花の旅」、「化物の 正体見たり 枯をばな」

見性寺の横井也有像(愛知県春日井市) 横井也有翁隠棲之址碑(名古屋市中区)

【与謝 蕪村】(よさ ぶそん)

 江戸時代の俳人・画家です。1716年(享保元)に、摂津国毛馬村(現在の大阪府大阪市都島区)の豊かな農家に生まれましたが、本名は谷口(のち与謝)信章と言いました。十代の頃に父と母を亡くし、家を失って、20歳ごろ江戸に出て絵画や俳諧を志し、その2年後に、夜半亭(早野)巴人の門人となります。27歳の時に、巴人が亡くなったので、江戸を出て下総国結城(現在の茨城県結城市)に住む同じ巴人の弟子の砂岡雁宕の元に身を寄せました。それから、10年もの間、松尾芭蕉『奥の細道』の足跡を訪ねるなど東北地方、関東地方を遍歴し、画人・俳人としての基礎を固めましたが、その間29歳の時に蕪村と名乗るようになります。1751年(宝暦元)に京都に移って、45歳頃に結婚、しだいに画人・俳人としての名声を高め、1770年(明和7)には夜半亭二世となり、俳壇の宗匠の列に連なりました。1773年(安永2)には句集『明烏』を刊行して俳諧新風を大いに鼓吹、また、池大雅と合作の『十便十宜』を描き、画人としても一流とされます。主催する発句会には多くの人が参集するようになり、松尾芭蕉を祖とする蕉風の流派を復興させようと努めましたが、1784年1月17日(天明3年12月25日)に、京都において、病気により、数え年67歳で亡くなりました。

<代表的な句>
「五月雨や 大河を前に 家二軒」、「夏河を 越すうれしさよ 手に草履」、「菜の花や 月は東に 日は西に」、「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」、「冬鶯 むかし王維が 垣根かな」、「しら梅に 明くる夜ばかりに なりにけり」(辞世)

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