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『蘿隠君内津紀行』テキスト


横井也有内津来訪250年

☆蘿隠君内津紀行(らいんくんうつつきこう)

 江戸時代の俳人横井也有著の紀行文です。也有に私淑し、尾張国春日井郡内津村(現在の愛知県春日井市内津町)に住んでいた俳人長谷川善正(号は三止)は、かねてから内津に松尾芭蕉の句碑を建立したいと考え、その揮毫を也有に依頼し、「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と書いてもらいます。その碑が建立できたので、1773年(安永2)に、三止はそれを見てもらうため、也有を内津村の自宅に招いたのでした。也有は同年8月18日(新暦10月4日)に、門人の石原文樵、也陪と共に、内津村まで旅をします。8月27日(新暦10月13日)まで10日間も三止宅に滞在して、寺社(妙見宮、見性寺、虎渓山永保寺)や試夕亭を訪ねたり、5回もの句会を開いたりして遊びました。帰宅してから8月中に草稿とも言える『蘿隠君内津紀行』を書き、9月に入ってから、推敲を重ねた上で、紀行文ともいうべき『内津草』1巻を著しました。それが也有の没後、太田南畝や石井垂穂らが編纂・刊行した也有著『鶉衣』に入っていて、世間に知られることとなります。文章は、軽妙洒脱で、その中に俳句、狂歌、漢詩を散りばめていて、旅の様子がよくうかがえるものとなりました。

☆『蘿隠君内津紀行』テキスト

 現山なる更幽居を訪むととし此おもひ侍るも、老の懶にうち過しが、此秋しきりに思ひ立て葉月十八日の夜ふかく出たつ。居待の月いとよく晴て隈なき光昼のごとし。市中家々人しづまりて物の音なく往来の影たえてなし。大曾根といへる所に至りて七つの鐘聞え侍る。
  おもひ出す詩あり鶏鳴市の月
かくいはゞ、そは何の詩ぞとうたがふ人もあらじかし。
  片耳や片側町のむしの声
ゆくゆく人家尽て谷田川・勝川などわたる。水浅くして船橋なし。ずさどものあなつめたなど笑ひのゝしる。我は篭よりさしのぞきて、
  夜る寒しかち人わたる水の音
それより秋の野山晴やかにうち詠行ほど、夜もやうやう明けなんとす。
  まづしらむ夜や山畑の蕎麦の花
鳥居松・大泉寺・坂下・明知・西尾などいふ里々を過。
  篭立るところどころや蓼の花
かねてけふ訪むとあらまし聞えて、鞍骨とかいふ所まであるじ出むかへに、
  けふこゝへ尋ね来んとはくらほねやくらげのほねに逢心地する
とたはぶれて伴ふ。此あたりより山ふかく数峰左右に聳、決々たる渓泉至る所に聞く。誠に心澄て耳目すべて風塵のおもひ忘る。
  名は似たりうつゝの山も蔦の道
昼のほど至り着ぬ。
    其夜即興
  夢も見じ鹿聞までは臂枕
   月も居待を過て遅き夜   あるじ
    此末略す
    妙見法楽
  杉深しかたじけなさに袖の露
妙見寺の山はことごとく大杉物すごくしげりたる所なれば、
  山は杉里も新酒の一たばね
    虎渓
  座禅にも目は迷ふ山の秋の色
更幽居のかり寝もおもひの外に日をかさねて、かへるけふまでも、あるじのもてなしのねもごろなりければ戯れて、
  老武者の我も長居のさね盛か斉藤弁当まで世話に成
   安永二年八月    蘿隠   

葉月十八日夜首途   文樵
  居待から有明うれし旅ごゝろ
大曾根にて篭を立る。まだ夜は深ふして旅人も見当らず。
市中の軒に腰かけて、
  ちらさじと煙競や新たばこ
それより山田といふ郷へかゝりし道すがら時ならぬ寒さも弥増、山田川を渡る。
  夜寒さを重々や川渡り
勝川を超へる此はほのぼのと明かゝり、車馬の往来喧かまし。
  勝川や水押分て渡る雁
夜も明て山中一面に蕎麦の花最中也。
  よく見れば霜ではなふて蕎麦の花
鳥居松にて賤家へ立寄り茶を乞て弁当などつかふ。
  焼飯に露こき交て煮花かな
行くほどに草花錦のごとし。
  光り添る山の錦に朝日かな
城見坂にて、
  霧晴て其峰高し城見坂
内津を見かけて、
  落行や水の木魂の岩づたひ
三止亭へ挨拶、前書略
  おもしろし手枕に臥待の月
妙見宮へ法楽、
  尊とさやうらは枯ずに峰の杉
彩霞庵へ晴ぜられし、
  饗応にあふ秋ふかし驥尾の蠅
讃物乞はれて、夏木立の下人の通たる画、
  月は山木下は闇の人通り
大竹一本の画、
  此君に何かおしまん初幟
雪に傘さして行女の画、
  恋の闇積り積りて雪の傘
虎渓にて、
  目の欲や冷て来る迄座禅石
留別、
  たちかねる我も蝶なり薬師草 帰庵廿七日途中、
  山に立波のうねりやそばの花

昭和58年3月30日 名古屋市教育委員会発行『名古屋叢書三篇 第十七巻・第十八巻 横井也有全集 中』より

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