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横井也有の俳文選
89「知雨亭記」

☆知雨亭記(ちうていのき)

 横井也有著『後鶉衣』に掲載されている俳文で、宝暦4年(1754年)頃、也有が数え年53歳で隠遁した時の作と考えられています。也有の草庵(知雨亭・半掃庵)について記したもので、とっても簡素なものとされています。当初は妻も同居していましたが、途中からは、執事兼弟子であった文樵と二人で暮すこととなりました。半掃庵の意味は、「掃除もしたりしなかったり」ということで、知雨亭については「知雨亭記」で「名づけて知雨亭と呼ぶ事、かの蘇氏が喜雨にもならはず、何がし黄門の時雨をも追はず。陸放翁が歌吹海にありて、七年の耳にしらざりしといひけん軒うつ雨のしづかなれば也。」と由来が述べられています。(知雨亭は、繁華な町中から離れているとはいえ、片田舎でも山の中でもない。鎌倉時代的な隠者志向はあるものの、極端に走ることはなく、簡素静寂ではあっても、そこそこ便利で快適な生活の場となっています。「そこそこ便利」というのは也有の考え方であり、自由を求めて隠棲したということだと考えられます。

☆知雨亭記(ちうていのき) (全文) 

<原文>

 市中甚遠からねば、杖頭に銭をかけて[1]酒をおぎのる足を労せず。市中又近からねば、窓底に枕を支へて夢を求る耳静也。こゝに少の地を求めて聊[2]膝を容るの幽所[3]をいとなむ。よし彼の鬼は[4]笑ひもすらむ、我が世のあらまし[5]たがふまじくは、花と双びの岡[6]ならずも、ありとだにしられでぞ老の春をも過さばやと人しれず思へる也けり。
 かの山雀の身[7]のほど隠して四壁只風をふせぎ、三径[8]わづかに草を払ふ。こゝに汲むべき山の井なければ、井戸一つこそ過分のたくはへなれ。あたりは夕がほの小家がちなれば、枕に鶏の暁を告げ、夜はとがむる犬も声して、ひたすらけどをき程にもあらず。門を出て東北の方しばらく十歩の杖をひけば、指頭万畳の山横をれ、眼下千町の田づらつらなり、村落畫図の中に入る。南は高くらの森[9]高く、鳴海の浦風もかよへばや、熱田潟[10]も名のみして夏は夏しらぬ日も多かり。やゝ賤が家の蚊やりも細りて、衣うつ声虫の音もよそよりは早き心地するは夜寒の里[11]も近ければならし。年くれとしかへり、垣ねの梅は遅からねども、万歳鳥追などいふものゝ、うき世の春には一と日も二日も立をくれたるなど、さすがに片里めきたり。
 されば名づけて知雨亭と呼ぶ事、かの蘇氏が喜雨[12]にもならはず、何がし黄門の時雨[13]をも追はず。陸放翁が歌吹海に[14]ありて、七年の耳にしらざりしといひけん軒うつ雨のしづかなれば也。やゝ多病の老にともなひ、しげき事はざ[15]に物ぐさなるには、あわれ思ししまゝなるをと、我は心ゆきておぼゆるを、こゝもまた府城[16]の辰巳なれば世を宇治山[17]と人はいふらむかも。

昭和58年3月30日 名古屋市教育委員会発行『名古屋叢書三篇 第十七巻・第十八巻 横井也有全集 中』より

(現代語訳)  知雨亭記

 市街地まではそんなに遠くはないので、杖頭に銭をかけて酒を買うのに労することはない。市街地はまた近くもないので、「帰去来辞」のように、窓底に枕を支へて夢を求めても耳は静かである。ここに少しばかりの土地を買い求めて、いささか膝を容れるほどの隠棲の地を営む。先の事を言えば鬼が笑うことであろうが、自分の将来の予測が間違っていなければ、花と吉田兼好の隠棲地とはいかなくても、生きているとさえ知られないで、春が深まっていくのを、人の年老いていくままに過そうと人しれず思うことだよ。
 あの寂連法師の山雀(やまがら)の体ほどを隠して、四つの壁はただ風を塞ぐだけで、隠者の門庭はわずかに草を刈っただけである。ここに汲むような山の泉がないので、井戸一つこそが過分の貯えとなっている。周辺は、『源氏物語』の夕顔の巻に出てくる小家がちであれば、枕元では鶏が夜明けを告げるように鳴き、夜は怪しむような犬の声もするが、まったくいやな程でもない。門を出て東北の方にしばらく十歩ほど杖を使って歩けば、指さす方にたくさんの山が横たわり、眼下には千町の田が連なり、村落が絵の中に入る。南は高倉の森が高く、鳴海の浦の風も吹いてくれば、熱田の海も評判通りで、夏でも夏らしくない日も多いことだ。少しばかり貧しい家の蚊を追い払う煙も細くなって、砧を打つ声、虫の音も他よりは早いような気持ちがするのは、夜寒の里が近いからかもしれない。年末と年始、垣根の梅は遅くはないけれども、新春の万歳や鳥追などというものも、現世の正月には一日も二日も遅れて来るなど、さすがに片田舎であることよ。
 そうならば、知雨亭と命名して呼ぶことは、かの蘇東坡の邸を喜雨亭と呼んでいたことを模倣もせず、藤原定家が小倉山の別邸を時雨亭と呼んでいたことにも追従せず。詩人陸游が遊郭にあって、七年間も耳に聞こえなかったと言う、軒を打つ雨も静かなことである。次第に多病の老人となるのに伴って、煩雑な仕事におっくうとなってはいるが、しみじみと思いのままになっていると、私は満足に思っているものの、ここもまた、名古屋城の東南にあたっているので、喜撰法師の歌のように世の中を嫌うと言う意味で、「世を宇治山」と人は言うかもしれない。

【注釈】

[1]杖頭に銭をかけて:つえがしらにぜにをかけて=「蒙求」にある晋の阮宣の故事(いつも杖の頭に百文の銭をかけ、酒屋に寄って飲んだという)を踏まえている。
[2]聊:いささか=かりそめ。とりあえず。
[3]幽所:ゆうしょ=世間から離れてひっそりした栖。閑所。
[4]彼の鬼は:かのおには=来年の事を言えば「鬼が笑う」と言われるが、今後の退隠生活の抱負を述べようとしたもの。
[5]我が世のあらまし:わがよのあらまし=あらましは将来についての予測、心づもりで、自分の将来の予測という意味。
[6]双びの岡:ならびのおか=吉田兼好の晩年の隠棲地で、兼好の「契りおく花とならびの岡の辺にあはれ幾世の春をすぐさん」に出てくる。
[7]山雀の身:やまがらのみ=山雀はシジュウカラ科の鳥で、寂蓮法師の「籠のうちも猶うらやまし山からの身のほとかくす夕かほの宿」(玉葉集)を踏まえている。
[8]三径:さんけい=漢の蒋?(しょうく)が庭に三すじの小道を作り、松・菊・竹をそれぞれの小道に植えたという故事から、庭園内の三すじのこみち。転じて、隠者の門庭、または、住居。
[9]高くらの森:たかくらのもり=熱田の北、高倉の森。
[10]熱田潟:あつたがた=熱田の浦、熱田の海、尾張の海とも言われ、その後、熱田湾、名古屋湾と呼ばれるようになったが、享禄(1528〜32年)の頃までは上知我麻神社あたりまでが海であった。
[11]夜寒の里:よさむのさと=高倉の森の南あたりの地名(現在の名古屋市熱田区夜寒町の辺り)で、その昔閑静で眺望のよい別荘地とされた。
[12]蘇氏が喜雨:そしがきう=蘇東坡(中国北宋の政治家、文豪、書家、画家)の邸を喜雨亭と呼んでいた。
[13]黄門の時雨:こうもんのしぐれ=黄門は中納言の官位を中国式に言いったもので、ここでは藤原定家のこと。小倉山の別邸を時雨亭と呼んでいた。
[14]陸放翁が歌吹海に:こうもんのしぐれ=陸放翁は南宋の詩人陸游。歌吹海(かすいかい)は遊郭のこと。陸游に「憶在錦城歌吹海、七年夜雨不曾知」の詩句がある。
[15]しげき事はざ:しげきことはざ=繁き事業。煩雑な仕事。世事。
[16]府城:ふじょう=国府の城郭。ここでは、名古屋城のこと。
[17]世を宇治山:よをうじやま=百人一首八番の喜撰法師の歌「我が庵は都のたつみしかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり」にあり、世をきらうというその「憂(う)」と地名の「うぢ(山)」を掛けた言葉。

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